あなたがたは、わたしを何者というのか

マルコ福音書 8章 27-33節

奇妙なモノの言い方から説教を始めたいと思いすけれども。イエス・キリストがもし現代に生きていたらとか、私たち自身が2000年前、主イエスが活躍しておられたあのパレスチナにいて、その姿に接していたらイエス様はどんな印象がする方なのだろうかと思ったことはありませんか? 主イエスはご自分を低くなさいましたから、現代の政治家のように偉そうには振る舞わなかったと思います。肩で風切るような歩き方もしないでしょうし、強さを施行するような政治家の姿とはまるで違うだろうと思います。社会的に最も立場の弱い人、軽蔑されていた人たちと同じ目線に立たれていただろうと思います。けれどそうして自分を隠せば隠すほど、尊さや清さは目立って、人々の間で輝いただろうと思います。その結果、途方もなく多くの人々がイエスの周りを埋め尽くしたんだと思います。
ユダヤの指導者たちも注目しないわけにはいきませんでした。イエスを十字架にかけたローマ兵たちですら「この方は誠に神の子であった」と言わざるを得なかったというのです。

マルコ福音書の8章の冒頭のところで、4,000人の人々にパンを与えたという出来事が語られています。ヨハネ福音書ではその結果、イエスを王にしようと人々が働きかけたと語られています。社会の最も底辺にいた人々に支持されていた人が王に祭り上げられるという図式。人間であればチャンス到来とばかりに、それに乗っかってしまうであろうと思いますけれども、イエスはその正反対でした。その声を厳しく排除して十字架の道をさらに徹底して歩んで行かれました。まさしく主イエスの身辺には、人の心には測れない力が漂っていた。

ですから自らを隠そうとしながらも、イエス様の魅力というものは人々の中に浸透していったんだと思います。今日のところでは十字架にかかる直前にエルサレムからほど近いベタニアで、ある女性が非常に高価なナルドの香油*をイエスの足に注いで、髪の毛で足を拭ったという出来事が起こっています。

*ヒマラヤの山中で作られていた香油。数グラムで何万円というような値段が付く。ヨハネ福音書によると1リトラ(400g)ぐらい。

自分の可能な事を精一杯、イエス様の前に注いでいった。想いを傾けていった。この出来事はこの女性が可能な、最大の献身と見えます。こうしたイエスの発言や行動という外側に現れたものに影響を受けてきたことから始まって、隠しても内面からにじみ出てくる光、力、そういうものに促されて、人は自分が可能なことをイエス様に表したんだと思います。
場所はフィリポ・カイサリア地方と言われています。フィリポもカイサリアもユダヤとは関係のない、ローマ、ギリシャ風の名前の街です。もともと皇帝アウグストからヘロデ大王にこの街が与えられた。そのこと自体も非常に不思議な話で、皇帝アウグストがこの土地の所有者だったということも、なんとも奇妙な話です。もともとユダヤ人の物であった土地を皇帝アウグストが取り上げて、それを改めてヘロデ大王に与えていた。そのヘロデの息子、フィリポが拡張工事をして皇帝ティベリウスに敬意を込めてカイサリアと命名した。カイザリアはもう一つ別の街がありますから、区別するためにフィリポ・カイサリアと名付けられたんだそうです。
自分の物でない物を勝手に人から取り上げておいて、地元の有力者にそれを渡してやる。プーチンさんのやり方のような気がします。

ここには元来、パンの神(牧羊神)の神殿があったと言われる場所ですけれども、ユダヤにありながらギリシャローマの影響を受けた。ユダヤ人から言えば非常に異教的な雰囲気の強いところだったようです。様々な宗教や外国の感覚が取りなす、言ってみればインターナショナルな町。そうしたユダヤ的な伝統のない場所でイエス様は「君たちはわたしを誰と言うか」と尋ね、彼らに信仰を告白させたという出来事が今日の出来事になります。

主イエスに対して、いろんな見方ができると思います。私たちもそれぞれの見方を持っているかもしれない。宗教は自由ですから、イエス様について色々と考えをめぐらすことは自由なんだと思います。ですけれども大事なことは、我々自身が「主イエスという方はこういう方で、私たちはこの方をこう信じるのだ」という信仰告白がなければ私たちの信仰は成り立たないのです。聖書は人生の生き方や死の問題について大切な教訓を我々に与えてくれると思っている人は多いです。クリスチャンじゃない人も、そういうことを考えている人々は沢山いると思います。人生や神についてイエス・キリストを聖書から学べる。確かにそうです。しかし何よりも聖書が伝えたいと語っていることはイエス・キリストを主として信じることです。イエス・キリストを信じなければ救いはないという事ですから。

主イエスはご自分が語った言葉を「信じなさい」「主イエスの力によって新しく生きなさい」とも言う。「わたしを信じなさい。信じたら救われる」ということです。これはあらゆる時代における、変わることのない、教会からのメッセージです。

イエス・キリストがどんな存在であるのか。さまざまな人が自分たちの知識や常識を使って、一つのキリスト像を作り出そうとします。けれどを作り上げられたその像はキリストを利用した自分たちの願いを形にしたもの。結局、キリストを信じられなくなっていく人々も多いです。聖書は最終的には信じることを求めるのです。信仰以外のものを聖書に求めようとすると聖書から離れていくのは当然です。
そこで主イエスはまず「人々はわたしを誰と言うのか」と聞きました。ここで言う「人々」とはキリストを信じていない人のことだと思います。そういう人の意見を聞いてもあまり意味はないだろうと思います。けれど、そうした人の考えの中に、自分たちがキリストに抱く期待がかぶせられていると考えることもできます。その時代のユダヤ人が持っていた期待がありました。イスラエルの回復、独立です。ユダヤ人にとっての救い主とはイスラエルの政治的な救済者でなければならなかったと考える人々もいました。
やがてペンテコステになってペテロは説教をしました。ペテロの説教に心さされた人々は「我々はどうしたらよいのですか」と訪ねました。それは「キリストをどう信じたら良いか」という問いでもありました。我々自身が主イエス・キリストにお目にかかって、信じることができるか、どう信じるのか、どう呼ぶのか、あなたの救い主として信じられるのか、と聞きます。我々はキリストについて、自分の好きなように考えたらいいということではありません。

我々はこの世に生活しています。生活の全てが信仰につながっているとは言えないかもしれない。でもよく見つめると、結局は信仰に関係があります。信仰に恵まれて励みを与えられていると物事に対する集中力が増していきます。健康の度合いも上がるかもしれない。対人関係や人間関係がスムーズに運ぶということもあるかもしれない。幸せでない出来事も人生には起こります。嬉しくない出来事にも直面するかもしれない。そうした事態に対応するためにも信仰はとても力になります。そうした折に「キリストこそ救い主」と告白できれば試練の半分は越えられたと言えるかもしれない。やはり日々の歩みの中に「あなたがたは、わたしを誰というか」という問いに、どう答えるかということが非常に大事なことなのだと思います。

ヨハネの6章の66節から71節までに、パンの奇跡の後でイエスがお話しをされます。パンをいただくところまでは人々はそこにおりましたけれど、続いて主イエスが、自分は命のパンであると言い始めた途端、大半の人々は離れていきました。どんどん主の元から離れていって、ついに弟子たちしか残りませんでした。人々がイエスに求めたのは単純にパンのみでした。その弟子たちに向かって主イエスは「あなた方も去ろうとするのか」と聞きました。
主イエスに救いを求めた人はキリストと共にいることを喜ぶのです。我々も無論そうです。しかしキリストに従い続けることは皆が皆そうではない。死刑があるわけではありません。難しい議論をしなければならないわけでもありません。ただパンによって現される幸せがある。キリストを信じることはそういうことなのだ。そうする間、人々はキリストの元に留まった。ヨハネが生きていた時代もそうだった。今もそうです。人はいろんなパンがある。この世的な幸せが得られる限りにおいてキリストの元に留まるということがあるのかもしれない。

しかしそこで「それではあなたがたは、わたしを何者と言うか」という質問をイエス様はなさいます。口語訳はもっと分かりやすいのです。「それではあなたがたは、わたしを誰というのか」
このものの言い方は自分の存在を相手に確かめようとする言い方ですけれども、結構重大な相手との関係性を問題にするときに言われる言葉ではないでしょうか。男女の関係の中で言えば、この人とずっと一緒にいていいのかどうか。「私はあなたにとって誰なのだ」ということを確かめる時の言葉ではないかと思います。もし夫や妻から「私ってあなたのなんなんでしょう?」「私は誰なの? あなたにとって」と問われた時は、注意深く真剣に答えを見いださなければならない問いだと思うんです。答え方ひとつでその関係が断絶するかどうかの瀬戸際に立っていることを理解しなきゃいけないと思います。このように問う側は真剣さを込めて問うのです。

「イエスは一片のパンの価値しかない」と言う人々が4,000人もいたのです。その人々は全部いなくなった。しかしそのパンの向こうに、胃袋だけではない心の飢えと渇きを癒やす神性を見出した人がいた。キリストが救い主であるということが明確な、明晰な姿をとって現れる。
「キリストによって生きるのか、このパンによってだけ生きるのか」
「神によって生きるのか、神以外のものによって生きるのか」
弟子達はそれを問われた。イエス様が、私たちと「共にいたい」「同伴したい」「共に歩んでいきたい」とおっしゃってくださる時であったんじゃないですか。そのことはとても深い意味があると思います。

お祈り

神様、あなたの前にこうして歩むことができます幸いを心から感謝します。イエス様の前に献身的な生涯を捧げるような人々もあれば、一片のパンのみのためにイエスの前に現れた人々もおります。どちらを選ぶかはまさに人それぞれでありました。しかしながら主イエスは真剣にそのことを一人一人に問うてくださいました。あなたの前に私たちも真実に歩むことができますように。
あなたに促されて、あなたに導かれて、あなたに助けられて私たちのこの生涯を歩み続ける者でありますように助けを与えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

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