神の告知

ルカ福音書 1章 26-38節

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いよいよクリスマスを来週に迎え、嬉しくも慌ただしい日々を迎えております、ルカ福音書はキリスト誕生の物語が1章26から始まります。ここに盛られている通りのことが事実として起こったかどうかは別として、こうした物語を通して、キリスト誕生の持つ真理を明らかにしようとしたルカによる信仰物語を、私たちは感謝をもって受け止めることができます。
本日の聖書テキストはマリアへの受胎告知と呼ばれている出来事です。つまり先週ヨハネの誕生をザカリアに告げたのと同じ天使ガブリエルが、ナザレの村娘のマリアに現われて、イエスを身ごもることを告げる場面です。

ヨハネの誕生と、御子イエスの誕生が明らかにされます。二つの物語には似ている状況がいくつも見られます。天使が現れて誕生を告げることなどが類似点です。しかし他方で、どちらも子を産むことがとても困難か不可能な状況の中にある女性が母となることが非常に特徴的です。ヨハネの誕生のことは父親のザカリアに告げられたのに、イエス誕生の場合は母親のマリアに対してであります。ザカリアが立派な家柄の出であり、祭司という重要な務めを担っているのに対して、マリアはナザレの村の名も知られぬ家の村娘であることなどの違いは際立っています。
それぞれの類似点や相違点になにがしかの意味があるのでしょうが、それを聞いたザカリヤも、マリアも同じように「信じられない」という拒否反応を示したことは共通しています。その結果としてザカリヤは神の厳しい裁きを受けて10か月の間、口がきけなくなりながら、マリアの方は何の咎めもなく、励ましを受け、信じる者にすぐに変えられたのでした。
ザカリヤは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」(1章18節)と答えています。そのザカリアに対して「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから」という理由で彼の口は閉ざされてしまいます。これはザカリヤの全面的不信仰というのではなく、子が与えられるという1点における彼の不信仰に対する神の咎めとでもいうものでしょう。一方マリアの場合は男の子が体内に宿ると告げられた時「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)と答えています。これも天使を通して語られた神の言葉に対する不信のレスポンスでした。

それにしても、このザカリアとマリアに対する神の取り扱いの違いはいったい何故なのだろう。神様のえこ贔屓なのだろうか? ザカリヤの長い長い信仰年齢の歴史、いま置かれている立場や勤めの重大さからすると、神の言葉へのより高い信頼が求められた。その点マリアの場合は15、16歳と予想されており、しかも処女である以上、絶対的に子供が生まれる可能性はゼロであり、マリアに示されている事実は、ザカリアに示されていることよりもはるかに受け入れがたい事実でありうると受け止めるほかはありません。一見ザカリアに厳しくマリアに甘いとも思える判断ですが、私たちへの神の判断は、えこ贔屓や不公平ではなく、神の深い御心に基づく、配慮と愛が込められた決断によるものと解すべきなのです。
マリアの場合にはザカリアのようにすぐに咎められたり、裁かれたりという事はありませんでした。それどころか聖霊によって胎内に子が宿るのだという事、そしてマリアの親族エリサベトも、老齢ながら神の力によって子を宿しているという神のしるしを示すことによって、信じることへと穏やかに導かれているのを私たちは見るのです。

神は大きなみこころをもって私たちをそれぞれにふさわしく取り扱ってくださっている

マリアはていねいに、穏やかに、神のみこころを明らかにする天使の言葉に納得し圧倒され、信じる者に変えられています。そして天使の力強い言葉、「神に出来ないことは何一つない」(37節)に突き動かされるように、マリアは言います。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)

このマリアの信仰によって、神の御子のこの世への誕生が現実の出来事となるのです。一方でザカリアとエリザベトの老夫婦において、彼らの年老いたという限界からくる、子を産むという不可能性が神の力によって打ち破られ、新しい生命の誕生が約束されています。この出来事を通して神のみこころが働くとき、私たち人間にとって不可能と思える事が可能とされることが示され、また約束されているのです。老いという事の不可能性も、幼いという不可能性も、神が関わられることによって乗り越えられることを約束されるのです。
私たちが前を見ても後ろを見ても望みがなく、八方ふさがりとしか思えない状況の中、なおマリアのように身をゆだねるとき、そこに新しい状況が作り出されてゆくという事です。

静かな日常の中に突然、神が介入なさる。神がお出でになるなら、八方ふさがりのような状況の中で、マリアのように神さまに身を委ねるとき、何事か新しい事態が作り出されてゆくに違いないのです。神は「お言葉どおり、この身に成りますように」と身を任せる人を待ち望んでおられるのです。

思えばマリアは特別な女性ではありませんでした。戸惑い、うろたえるマリア。しかし神さまはこの小さな存在であるマリアに「お言葉どおり、この身に成りますように」と神の前に差し向かわせます。そしてそれはマリアにとっては主に仕えるはしための道でした。このマリアの神への信頼と従順、それこそが救い主をこの世に迎えるという入り口となったのでした。それは私たちの小さな信仰が、我々の場において、救い主を我々の場所へと導く入り口となり得るのです。たぶんそれは我々にとって都合の良いことだけにとどまらないと思います。悲しみ、嘆き、失望、病、障がいが栄光の入り口と変えられたように、み言葉に対するマリアの信頼と従順が救い主をこの世に迎え入れた。同様に神は私たちを助け救うために主み子イエスを私たちの世界に送られたのです。

救い主の名前はイエス。主は救いたもうという言葉です。つまり人は自分が救い主を必要としていることに気づいていないのです。だから神を求めることもしないのです。ですから神の方から立ち上がって、そのままでは失われ滅びに向かうほかない人間にイエスをお遣わしくださり、私たちと共にいて下さろうと決断なさったのです、神がこのイエスにおいて、私たちと共にいておられるのです。

人は神になれません。けれど神とともにあることはできます。それをイエス・キリストが叶えてくださる。そこに人類の希望があるのです。神はイエス・キリストにおいて特別な結びつきを持とうとされます。マリアは天使に<恵まれた方>と呼ばれました。神はわたしたちを今日も招きます。神も私たちを何らかの特別な呼び方で呼んでいて下さいます。

2022年12月18日 礼拝メッセージより

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