今日パラダイスに

この一文は私が以前礼拝に出席していた教会の月報に掲載していただいたものですが、もう一度お読みくだされば幸いです。

五月のある日曜日、礼拝に行くためにバス停でバスを待っていました。寒さも和らぎ春らしい空気に包まれ、背の高いモミジバフウの樹を仰いで、新芽の膨らんでいる様子を眺めていました。
そのときふいに私の心に、イエス様が、共に十字架にかけられている犯罪人のひとりに話されたみ言葉が響きました。

あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。

ヨハネ23:43

このみ言葉について考えていると、私は感動というか強い安心感を覚えました。
イエス様の十字架上でのご最期についてはそれまでに何度も聖書を読み、礼拝のメッセージとして語られるのを聴き、また書かれたものも読みました。イエス様が宣教された三年半の年月、どんなに人々を愛し、癒し、赦しを与えられたか。しかしそのご最期に待っていたものは弟子たちをはじめ、イエス様を神の子としながら裏切っていった人々の心でした。この世界でイエス様を理解し、信じ従おうとする人は「ひとり」もいなかった。それは間違いのないことです。
しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。最後の最後に、父なる神様はイエス様への信仰を告白するひとりの人をお与えになったと思うのです。
「今日、あなたは私とともにパラダイスにいます」
このみ言葉にこめられた、イエス様の爆発的な喜びを思いました。
「そうだ、イエス様はたったひとりではなかったんだ。この瞬間に神様のみ国に行く者がいたのだ」
「父なる神様は、こんなふうにご自身を現わされるのだ」
そう思い至り、「ああ、よかった!」と心に叫んだとき、待っていたバスがやってきたのでした。

伊地智惠子(2024年3月31日 週報の裏面より)

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