永遠を映し出す場

マタイ福音書28章16-20節

召天者記念礼拝

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猟師は足跡を見れば、その動物が熊か、野牛か、オオカミか瞬時に判別がつきます。
人は誰でも、もっともその人らしい足跡を残すものです。その人は何を焦点に、何を目指して人生を送ったのか。すでに刻まれた人生という足跡は、修正も、変更もできないものです。しかしキリスト者は、その生き方、信仰に生きた証を、関わり合った人々の心に深く刻むのです。わたしが深く感じ取っているのは、人が人生にピリオドを打ったとき、その人のあり方や、どう生きたかが明確に浮かび上がることなのです。

わたしは、ほぼ50年、この由木キリスト教会に身を置いて、多くの人々を迎え、送り出し、そして毎年のように人々の最期を看取ってきました。死という人間の力が到底及ばないその出来事の中で、信仰者と変えられた人々が、困難な病床で最期を迎えつつ、わたしのはるか想像を越える勇気と、平安の中で死を受け止めていったのです。同じ一人の人が神への信仰に生きる前と後では、まるで別人のような、堂々とした平安の姿を表わされたことも度々あり、まさしく死が忍び寄るところに、神の臨在を感じたことは1度や2度ではなかったのです。

信仰について考えをいたすとき、戸惑いを覚えるものです。信仰をスタートするだけなら簡単です。しかしそこに、信仰者らしい行動と生き方が求められます。それらしくない自分に無力感を感じ、気が重くなることがあります。確かに信仰は、単に精神的な気休めだけではないのですから、何らかの行動や結果をもたらすはずです。そうでなければ、むなしい言葉遊びの世界になっていくでしょう。

明日のわたしが、今日よりマシかどうかはわかりません。何しろ、今日という日は初めてなのです。そうして苦闘しながら一定の年月の経過を終えれば、この世から消えていきます。しかし、われわれはそれで消えてなくなるのではないのだと思います。ただ消え去るのみの人生なら、最初から生きて歩む気力や、責任も生まれません。私は人生を生きていくということは、私と関わった人々の心に、わたし・あなたという像を刻み付ける過程のような気がしています。わたしが死ぬことは、私という存在が人生を終える(いなくなる)ということに終わらないのです。私という像は誰かの心に投影されているのです。死んでからでさえも残る像を結ぶとしたら、できればよき像を結んで、人生を終えたいものです。

さて今日の御言葉は「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる。」で締めくくられます。これは単に形式的な結語なのでしょうか。この言葉は、わたしたちが神に約束したことではありません。神が、わたしたちにに約束してくださったことです。このときの弟子たちは、信仰的に、精神的にも最低のときでした。ほとんど使徒とはいえないような状態のときです。頼りなく、自信もありませんでした。彼らはただ神がともにいてくださるというこの約束だけを頼りにしました。自分を見ても、どこに確かなものがあるわけではありませんでした。
神が共にいてくださることは、そのこと事態が特別な状況なのです。<世の終わりまで>という言葉は「常に」「いつまでも」という副詞的な表現で、<あなた方と共にいる。>を強める言葉でしょう。
私は今回のお話を準備しながら、主イエスのこの言葉を伝えるために、マタイは筆を執ったのではないかと思ったのです。マタイは幼子イエスの誕生物語も、<このすべてのことが起こったのは、神が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。>(つまり、インマヌエル「神は我々とともにおられる」)と冒頭に語るのです。

私はいつもあなたとともにいる
言葉に出してこう言える関係は、その根源に「愛する」という確固とした意志と、熱い感情なしには成り立たない関係です。これは言い換えれば「あなたを深く愛します」という言葉です。確かに、十戒が語られる出エジプト記20:5に「私は主、あなたの神。私は熱情の神。」と語られています。
たとえ相手とする弟子が、今は頼りにならなくても、信頼がおけなくても、信仰すら怪しくても、神の愛がそこに注がれるなら、人は育ってゆきます。愛するからこそ、いつもそばにいてほしい。それを圧倒的な許しをもって主イエスが弟子たちに語ってくださる。それはわたしたちに向けられている。そう信じることが許される。神の愛は、言葉と主イエスの行動として弟子たちに伝えられ、弟子たちの内側にその愛は結実して、同様に言葉として、行動として人々に受け継がれていきました。

非力な弟子でした。しかし数十年後には、ローマ帝国全体に教会が生まれていたのです。この弟子たちが世界を変えたのです。それは弟子達の能力や、やる気の結果ではなく、共にいてくださったキリストの故としか言いようがないのです。わたしたちの生涯も、全面的にキリストを見上げて生きる道があります。

2023年11月5日 礼拝メッセージより

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