悪とたたかうキリスト

マルコ福音書 3章 20-30節

身内がイエスの噂を聞いて取り押さえに来た

「イエスが家に帰られると群衆がまた集まってきて、一同は食事をする暇もないほどであった。」(20節)
これは日常と変わることのない言葉です。イエス様が行くところには人が集まる。そしてそこで何事かが起こっていくというのは、いつもの出来事です。普通の出来事が淡々と描かれていると思うんです。でもまず、イエスが「家に帰られると」と書いてあります。そう、家に帰った。その後、家全体が人で溢れ返ったという予測の中で聖書を理解しようとしているわけです。
実はいつもと違ったことが起こっていたと言う。群衆だけでなくイエス様の家族が、一家総出で押しかけていた。イエス様を取り抑えに来たというのです。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とありますから“家”というのはイエス様の実家ではないわけです。おそらくペテロとアンデレの家だと言われております。他人の家です。「他人の家を自分の家のように使っていた」と取るべきです。そしてそこを活動の拠点にしていた。自宅はそういうことができる状態ではなかった。なぜならば、家族は主イエスの活動に疑問を持っていた。まったく無理解だった。
あの男は気が変になっているという周囲の言葉を鵜呑みにして、主イエスを取り押さえに家族総出で来ていたというのが現実のことのようであります。

大小はありますけれどもクリスチャンに誰かなると、その家の中でちょっとした違和感が生まれるということは時々あるんだと思うんです。信仰的な話題や活動を家庭に持って来られると、家庭の中では違和感をもって受け止められることがあるのです。イエス様の家族は力を使ってでも止めさせなければという気持ちを持っていたのです。家族から何とも言えない違和感、拒絶、無理解の中にイエス様が置かれていたということであります。そうした申し出があったからシモン・ペテロとアンデレ兄弟の家を使うことができたんだと思います。それにふさわしい愛と癒しの出来事が主イエスによってなされていたから。ペテロの姑がイエス様に癒しを施していただいたからというのが根本的にはあったと思いますけれども、それだけではなくて、まことにイエス様がいらっしゃるからこそ実現できる、何か素晴らしい出来事がそこに実現していたんだと思います。そういう事情がこの文章の中に、背景として横たわっていたということです。
一方で、心からの愛と献身を示す人があった。イエス様に対して最大限の援助になるかと思います。最終的にはこのお母さんのマリアさんも、家族の一人ひとりも、理解ができた。そしてエルサレム教会の重鎮になっていったわけです。

最初から好意をもって家族から受け止められていたわけではないのは、私もそうでした。若い時に小さな教会でクリスチャンになって、毎週のように礼拝には参加しましたし、教会生活が始まって礼拝に行かなかったことは、ほとんどなかったほどです。生まれたばかりの小さな教会にとっては、大きなことだっただろうと思うんですけれども、家族にとってみると、「なんだこれは」と思ったと思います。そういうことも私自身が理解できなかった。ですから違和感が生まれたんだと思います。

「エルサレムから下ってきた律法学者たちが『あの男はベルゼブルに取り憑かれている』。また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」(22節)
イエスの働きは凄まじい働きだけれども、それは悪霊の力なのだ。そこまで言われた。悪霊とは、家を支配する力という理解がユダヤにはあったと思いますし、聖書でも、そういう物語が別に書いてあります。要するに人の心の中には様々な思いが錯綜するということだと思います。
イエス様は神の国、神の支配を家に例えて教えられた。神の支配が始まるとは、そこに真実な家が与えられ、肉親とは別の信仰によって結ばれた心から信頼される、神の家族との関係が始まることだと思います。まさに教会は家族、信頼できる神の家族。家とは人がくつろぐところです。心が解放されるところです。イエス様風に言えば「人の犯すどんな冒涜の言葉も全て許される」。凄い言い方だと思います。主イエスは完全な許しを告げるのです。許されているという現実は心がくつろぐことです。心になお責められるところがあれば、くつろげないのです。ましてや神様が私を赦していて下さるというのです。神が私を赦しておられないとすれば、何をしても、くつろぎや憩いとは無縁な生活になるでしょう。主イエスはこの私たちを神の平安とくつろぎに招こうとなさっている。
思えば主イエスは自分の家でもないペテロの家を我が家のように受け止めてくつろいでいます。信頼と愛と歓迎があれば人はくつろげます。肉親だからといって、くつろげるとは限らない。心が一致すること、信仰が一致することは、くつろぎの中心であるかもしれない。

私はその後、教会での交わりというのが与えられましたし、特に由木教会で教会の働きを始めることになって、そういう関係が作り上げられてきたように思えてなりません。信仰はある意味では人生のようなものです。

主イエスは単にくつろいでいるのではなく、ゆったりする時間もないほどに人々に尽くしています。そこにはとてもくつろぐことのできない人々もやってきました。不思議なことに、それは身内の人々です。「あの男は気が変になっている」という噂を聞きつけ、取り押さえ連れ戻そうとした。なぜそこまで行かなきゃいけないんだろう。そこにはやむを得ない理由もあっただろうと思います。地道に大工の仕事を果たして家族を養ってきたナザレのイエスが、突然国中を歩き回って伝道する宗教家になった。そんな現実を家族がすんなりと受け入れるわけにはいかないというのもわかります。その変貌ぶりが理解できなかった。
無理からぬことだと思います。お父さんのヨセフが早い時に亡くなっていただろうと予想されていますから、父親がいない家庭で長男であるイエスに対する信頼の思いというのはあったかもしれない。それが家を捨てて、自分たちを捨てて家出してしまった。家族にしてみれば到底我慢できない。身内の恥だとも思われた。さらに否定的な反応を示したのはエルサレムから下ってきた律法学者でした。彼らは、神のことは自分たちが最も詳しいと思っています。

信仰、神について私たちにはわからない部分が実は多いと思います。しかし実際にはわかってないはずのことを、私たちは「分かっている」とか「卒業してしまった」と言うことはよくあることです。「私は大学で神学部も出ましたし信仰の事はもうわかりきってしまった」とおっしゃった方がおられました。そう思うことは、実は分かっていない証拠なんだと思います。

律法学者は、信仰の世界は自分たちがわかっているし、自分達こそ信仰世界を支配するにふさわしいとまで考えていた。ところがあのイエスはなんということだ。律法をきちんと勉強したこともないのに自分たちの信仰世界を知り尽くしている。専門家ですら理解できないようなことを言い、自分たちの手の届かない奇跡を行い、自分達が考えられないようなことを言う。
それはつまり、神の手からも離れている。そうであるなら彼の行うことは悪霊によるのだと結論付けた。
主イエスはそれに対して家のたとえで答えられた。極めてユーモアに満ちた答えです。「もし自分がサタンなら、人が癒やされるということはサタンからの解放だ。」 そんなことを言う人も実に珍しい人だと思いますが、なるほどそうです。その通りであります。サタンの間で内輪揉めがあるということになるだろう。内輪揉めをしたら癒しや奇跡は起こらないだろう。

そして27節の言葉が言われた。「まず強い人を縛り上げなければ誰もその家に押し入って家財道具を奪い取ることができない。まず縛ってからその家を略奪するものだ。」
言ってることは理屈としては分かりますけれども、いくらなんぼなんでもイエス様の言葉とは思えないような言葉です。でもこの言葉大事な言葉だと思いました。「何が?」といいますと、イエス様は、ご自身を《押し込み強盗》に例えています。思えば、主イエスは人の心に侵入なさるのです。心の中で支配的だった罪の力を追い払う力がある。神が新しい心に侵入してくださる。主イエスはご自身の力で、力ずくでも私たちの心に侵入することがお出来になる。お出来になるけれども力ずくでしようとしない。それがイエス様です。それを私たちは喜んで受け入れるべきなんです。愛は常に自発的な気付きによるのです。主イエスにおいて働くのは悪霊ではなく聖霊です。

「イエスなど神の子ではない」「イエスの罪の赦しなど何ら真実ではない」と言って、精霊を意図的に汚す人がいるかもしれない。でも人間の意思というものはそんなに強固なものではないのです。神の力こそ強い。それは人間自身を変え得るものです。主イエスを否定し続ける者を主イエスは許さないのでしょうか。「もういいよ、神様の事なんかもう聞き飽きたから」。そう言う人も世の中には沢山おります。
主イエスが十字架にかかるときに、共に十字架に付いた強盗をお赦しになったことが書かれています。十字架につけられて、この人の人生なんか終わったものも同じだと誰もがそう思うでしょう。しかしそうではない。十字架にかかった後でさえも、最後の最後に悔い改める人は主イエスの救いに与ることができる。どんなに非難されても、どんなに誤解されても、主イエスは軽やかにユーモアをもって彼らの悪意を切り返していくのです。

私の両親は、私が家から離れる時に「もうお前とは親でもないし子でもない」と、そう言ってくれました。でも最終的には
彼らは本当にいいクリスチャンとして人生の最後を飾ることができた。両親の葬儀に出てきた親戚たちの中で、実家に帰って
洗礼を受けたという人もおります。主イエスは信じる者を必ずその心に留めてくださる方でいらっしゃいます。

どんなに身内に反対されながらも、律法学者と論争しつつも、神の子にある家を信仰者のため真剣に作ろうとする。家族はそうして主イエスを信じるものになっていったし、律法学者の中でも信じる者は増えていっただろうと思います。
マルコ福音書が書かれた時代は、ユダヤ人達がローマに対する戦争を始めたような時代であり、ローマにも迫害の嵐が吹き始めていたと言われます。教会だって、住みやすい、伝導のしやすい時代だったとは到底思えません。しかしそうした時代にこそ教会は前進していったと言えると思います。主イエスの力が私たちの心に、乗り越えていく、凌駕していく、圧倒していく力を与えてくださる。イエス様の力はそれだけ私たちの内に臨んでいる。

お祈り

神様、あなたの前にこうして投げかけられる無理解や拒絶。それに対してあなたは大きな力を持って突破なさる、乗り越えていかれる方でいらっしゃることを改めて思います。どうぞ頑なな心を持った人、それがどんな人々であれ、あなたの前に心、砕かれて導かれていく、そうした方でいらっしゃることを改めて覚えることです。どうぞ私たちの前にも様々な困難があるかもしれません。しかしあなたは一人一人に対して大きな力を注いで動かしていってくださることを思います。どうぞ困難の中にある人々の上にあなたの助けがありますように。特に戦争の中で困難を覚えているウクライナの人々、爆撃にあっている人々、痛みの中にある人々、どうぞあなたの助けが悪意や憎しみを超えるものでありますように、あなたが望んでくださることをお願いをいたします。
私たちは共にあなたにあって平和を祈り、真実な思いが人々の心を支配的になっていくことができるように、どうぞこの世界にあなたの霊が満ち溢れていくことができますように助けを与えてください。一切を委ねます。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

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