百花繚乱

クリスチャンであれば、1年のはじめに、今年こそ聖書を読み通してみようと考えた人は多いはずです。1册の聖書の世界と言っても、そこには多彩な世界が広がります。聖書ですから、信仰の勧め、道徳的教え、イエスの足跡をいかに歩むか、教会をいかに造り上げて行くのか、建徳的な信仰の勧めが書き記されています。でも聖書はそれだけではありません。人間の罪を根本から問いなおし、さらけだす部分も少なくありません。<これでも聖書?>と思えるような血なまぐさい戦闘、不倫や裏切り、殺人、暴力、人間の罪の現実が、徹底的に暴かれます。ユダヤ国家主義に立ったエステル書があれば、コスモポリタンに立つルツ記もあります。イエスの生涯を描くのも四つの福音書を合わせ持つのです。

個人や、共同体や、国にはある一つのカラーがあります。よく赤色革命とか、黒色革命と言う言い方がありました。そこではボルシェビキやファシストではない人間は、人間としての価値すら認められないような、単一の考えしか認められないのです。為政者や権力者にとっては、「右向け、右ッ。」と自分の考え方さえ、理解してくれ、実行してくれれば、こんなに楽なことはありません。
首相の靖国参拝を諌めたある経済人のところには右翼の街宣車が押し寄せているそうです。首相が街宣車を送っているわけではないでしょうが、結果としては、この事実を知った上で、これを止めようとしない。テロとの戦いを口にしながら、テロを容認さえする。昭和のはじめの悪夢の再現でしょうか。
人にはそれぞれのカラーがあります。それぞれの色は、それぞれの個性としてそれを保つことは悪くないでしょう。自分の色を保ちながら、他者との共存を目指す。百花撩乱の世界こそ望ましいのです。しかし、かつてあれだけの差別にさらされたユダヤ人たちが、イスラエルの国籍をとったパレスチナ人に加えている差別と弾圧は、あの悲劇を経験したことを知らないかのようです。

主イエスが御自分は神でありながら、罪人を招き、やがて彼らを御自分の弟子とされました。教会は人種の壁や性差別は最初はありませんでした。受洗者と未受洗者との線引きもなかったようです。多様性こそ教会の力です。誰でも受け入れられ、誰でも歓迎される。イエス・キリストのおおらかな愛にみちた世界は、教会の宝物です。当然、個が確立されてこそ、多様性が生きてきます。でもいったん個が確立すると、それしか認めたがらない弱さを人間は持ちます。主イエスには全く違った他者を受け入れ、手をたずさえる大きさがあります。色鮮やかな世界はいつ実現するのでしょう。

(2005年01月16日 週報より)

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