荒れ野の誘惑
マルコ福音書 1章 9-15節
今日の箇所、この1週間、何度も読みました。
イエス・キリストが本来の使命である宣教の業を始める前に、荒野で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。
「その後、荒野に出かけて40日間サタンによる誘惑を受けられた」とマルコによる福音書は書いています。マルコ福音書では、荒野に行った時に霊がイエスを送り出したと書いてある。「それから霊はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)。細かく見ていきますと、マルコ福音書の誘惑の描き方と、マタイ、ルカの描き方とは大分違うことに気づいていきました。
荒野の誘惑で最初に登場する存在は、イメージからするとサタンじゃないでしょうか。でもマルコ福音書ではやっぱり違う。主イエスが洗礼者ヨハネの洗礼を受けられたとき、天が裂けた。そして天からあふれ溢れるようにして霊が天から降りた。そう書かれていると思うのです。これは重大なことです。霊が天から降りてきた。
地上の道はローマ帝国中に張り巡らされたハイウェイがあった。今でも使われている立派な道です。けれども主イエスが歩まれた地上の道は、舗装された綺麗な道ではなかっただろうと思います。イエスに与えられたのは荒野のような道でしょう。主イエスの行くところ行くところには神に敵対する力が、神に反逆する世界が待ち受けていたと言っていいと思います。言わば、道なき道です。
思い出してください。ユダヤ王のヘロデがその事実をつかんで、幼な子イエスを殺すために強力な軍隊を送って殺害を試みた。ベツレヘム近郊の生まれたばかりの2歳以下の多くの赤ん坊を手にかけた。
かつてヒトラーはミュウヘンの反乱を起こした時に学んだことがあった。国家の軍隊に勝つ術は無いんだと。だから国家を抑えればいい。そこで、選挙に訴えてナチ党が主力の政治勢力になったということがありました。それほど国家というものは大きなものを手にしているわけであります。正義かどうかは別問題です。
だからといって「神の力が及ばないところ」ではまったくない。厳然とした神の支配がいき渡っている圏内であることに変わりはないのです。神に反対する、反抗する勢力ものし歩いているところかもしれない。
私たちは「信仰の目」というものをしっかり見つめなければいけないだろう。見るべきものを見、受け止めるべきものは受け止めるということが問われるのだろうと思います。
受洗の時については今、申し上げましたように「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降ってくるのをご覧になった」と書きました。この表現は象徴的な書き方のようですけれども、とても大切な表現だと思います。
神という存在は天の高みにご自分の世界やご自分の領域をつくって、時々気が向いたときだけ人間の世界に押し寄せてくるというようなものではまったくなくて、神ご自身が人間との交わりを求めて、人間が神を知ることができるように、人が神を信じることができるように、主によって神が天を裂いて人間の住む地上に降りて来られ、ご自分を表されたということだと思います。
どういうことかというと「だからこそ地上には神の業が起こる」。この人だけはあまりにも頑固でかたくなだからクリスチャンになるはずがないと思っていたような人が、突如として回心してゆくということが起こります。
この荒野の誘惑は主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた直後と記されています。「それから『霊』はイエスを荒野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまりサタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが天使たちが仕えていた。」(12,13節)
非常に矛盾した現実があるような気がしてならなかった。まず、“霊”にカギ括弧がしてあります。英語の聖書だと、わざわざ大文字で、スピリット(SPIRIT)と書いてあります。ですから“霊”は悪霊じゃないんです。神の霊ないし、精霊に近い存在。神に導かれてこの荒野に向かったと考えるべき。
「その間、野獣と一緒におられた」とあります。面白い言い方です。これはマルコによる福音書だけに述べられている言葉です。次いでに見ると「天使たちが仕えていた」という言葉は、食事を供していたと受け止めるべきだと注解者たちは書いています。こんな危険な存在が一緒に居たにしては、野獣はイエス様を傷つけるようなことは全く書いてないのです。
野獣というのは何だろう。
イザヤ書の11章の6節から9節に、こういう御言葉があります。
「狼は仔羊とともに宿り、ヒョウは子ヤギとともに伏す。子牛は若獅子とともに育ち、小さい子供がそれらを導く。牛もクマも共に草を食み、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を喰らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼な子はまむしの巣に手を入れる。私の聖なる山においては何者も害を加えず滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」
イエス様が経験した40日間の日々、野獣は主イエスをを襲わず一緒に居た。ライオンでもトラでもクマでも人間の愛情を知った動物たちは愛情を返します。動物も親密さには親密さで返す。悪魔の化身としての野獣だとしても主イエスは野獣を追い払わなかったことになります。マタイ福音書、ルカ福音書では、サタンがイエスを試みたのは一時であり、「やがて彼らは去っていった」と書いてあるんですけれども、マルコ福音書では皆、共生しているんです。野獣は主イエスとともにそこに居続ける。おとなしく、危害を加える事はありません。
つまりこういうことが言えると思います。主イエスの周囲では野獣が牙をしまい、野獣でなくなる世界がある。そういう世界がイザヤ書の世界ですし、主イエスが野獣たちと共に歩んだ生活がある。
虐待されて捨てられた子猫や子犬を保護する運動が盛んです。動物でもそうした辛い経験を強いられた子犬や子猫を飼い慣らすことはとても忍耐のいることです。でもそういう子猫や子犬も心の底では愛情を渇望し平和を求めています。愛情あふれる飼い主さんの愛情はやがて伝わる。荒野の主イエスは正に無償の愛を野獣に伝えたのでしょう。どんな動物にも、ましてや人間ほど、野獣性を脱ぎ捨てたいと思っている存在はないと思います。
荒野にあり、サタンの誘惑にさらされても主イエスは動揺することなく前進します。主イエスが導かれたのは、あくまでも野獣が支配する荒野でした。そこではチカラを持つ者だけが生き残れる世界だったかもしれない。けれど主イエスの目は、名もない人間、力のない病人、女性、そうした人々に注がれるのです。ことによると私たち自身も、心に様々な荒野や野獣性を抱え込んでいるかもしれない。主イエスはそうした人間に対して野獣性を脱ぎ捨てる機会を与えてくださるのではないでしょうか。
ウクライナへのロシアの侵攻はどうなっていくでしょう。つくづく、現代という荒野の中で、人間こそ最も悪質な野獣という気がします。もしそうであれば現代世界のあちこちに天使は共に働きかけてくださるに違いない。そう願うのです。
荒れ野の誘惑の出来事は、主イエスがサタンを打ち負かしてしまい、それで終わりというのではなかった。ですからマタイも、サタンは一時的に去ったと書いています。イエスの生涯は、人と共に歩み、人間の苦悩を自らの苦悩のように引き受けられ十字架につかれた歩でした。主の生涯は決定的な十字架の勝利に向かっていくのです。主イエスこそ、私たちに平和を与えてくださる方でいらっしゃることを、荒野の経験というものが表しているのではないかと思います。
お祈り
神様。あなたは私たちにとって平和そのもの。そうした方でいらっしゃいます。あなたがお出でになったときに天が裂けて霊が鳩のように降ったとマルコは書きました。まさに主イエスによって神が天を裂いて人間の住む世界に降って来られた、いうことでありました。どうぞあなたの平和がこの私たちの、この全世界に及びますように。
たった一人の独裁者によって平和が揺るがせられていること、本当に残念に思います。しかしそれだけが唯一の力ではありません。まさに決定的な力を持っているのはあなたでいらっしゃいます。独裁者の心にあなたが届いてくださいますようにお願いをいたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りを致します。アーメン。