奇跡を行うキリスト

マルコ福音書 4章 35-41節

湖で嵐を叱る。

今日与えられた聖書の部分ですけれども、ガリラヤ、エルサレムから始まって今ではトルコと言われている小アジアに伝導が広がり、ヨーロッパに福音がもたらされ、教会の勢いがどんどんついてきた時の一つの出来事ではあるんです。マルコの福音書が書かれた時期としては紀元70年ごろと言われてるんです。紀元70年は何があった年かご存知でしょうか。ユダヤ人たちがローマ人に向かって反乱を起こした。大騒乱が起こって多くのユダヤの人々が殺された。この反乱を静めるのにローマ軍は総力をあげましたけども何年もかかった。そういう出来事があり、そうした中に教会があったということなんです。教会としても、どう自分の身を設定したらいいかという非常に難しい時代の一つの出来事として書かれているのです。

35節を見ますと「その日の夕方になって」と書いてあります。主イエスが弟子たちに呼びかけたのです。「向こう岸に渡ろう」 何処かというとガリラヤ湖です。ガリラヤ湖のどこからどこまで渡ったのかは、よくわかりませんけれども、縦21km、横幅が12kmある大きな湖です。向こう岸に渡ろうといっても5分や10分で渡り切れる湖ではない。「そんな時間からガリラヤ湖に漕ぎ出してどうなるだろう?」と弟子たちは良い気はしなかったと思います。「もしかしたら湖が荒れるかもしれない。嫌だな。」。多くの弟子たちは元漁師だったわけですから、そうした予感を感じ取って心の中で思ってたかもしれない。聖書辞典を見ますと、ガリラヤ湖の北側にはヘルモン山という大きな山があるのだそうです。高い山ですから切り立った斜面が多く、突風が吹きやすいと言われます。だから弟子たちは夜、船出したくなかった。でも何も言わないで従った。「この偉大な師がおっしゃるなら、それも悪くないかもしれない。自分たちの思いはあえて飲み込んで船を出そう」と弟子たちは思ったのかもしれない。
それはお互いの気持ちのやりとりです。心の繋がりの度合いです。相手がイエス様じゃなければ弟子達は何か言ったでしょう。主イエスと弟子たちの心のつながりが重んじて、誰がそんな呼びかけに応えるものかというような提案を主イエスが求めたのだから、我々は応えないわけにはいかない、というように思ったんでしょう。

予想通りのことが起こって大嵐になってしまった。船は水をかぶって水浸し、沈むかもしれない。どのくらいの船の大きさか書いてませんけれども、12人も乗れれば漁船でしょう。
大嵐が起こった時、イエス様は船尾の方でまくらをして寝ておられるではないですか。弟子達は、水を掻き出さないと大変なことになるという思いにかられて、苛立っていたと思います。経験豊かな自分たちが死にそうになっている。必死で水を掻き出している。でも主イエスは何もしてくれない。イエスの弟子であるという生き方、在り方こそ彼らの今を作っているわけですけれども、ときに主イエスは自分たちに対して何もしてくれないという受け止め方を持つことがあったのかもしない。
主イエスの前に歩むのですから彼らはもう漁師としての過去は捨てているのです。何よりも、誰よりもイエスに近い弟子でありたいと願っている。そうした弟子である意識と、主イエスは私のために何をしてくれているのだろうかという相反する意識が、お互いの心を動かしているということがあるかもしれない。弟子たちは既にそうだったかもしれない。

私たちは洗礼を受けたキリスト者です。大事な事柄がいくつもありますけれども、キリスト者であるということは私たちを建たせている大切なポイントです。「この週はキリスト者だけれども、この週はキリスト者でない私がいる」というわけにはいきません。一旦、キリスト者であると自分に決めたら、今日も明日も明後日もキリスト者として生きていかなければという立ち位置だと思うのです。それが出来ていますからキリスト者となって信仰が一応、身についてきます。キリスト教者としての道が身についていくということは大切なことです。
しかし、信仰が身についてくると、どうしても習慣的に信仰を歩むことになる。湧き上がる想いがどっかに行ってしまって、心をどっかに置き忘れた習慣だけの信仰生活に陥るという面もあるかもしれない。信仰生活が心からの賛美や感動なしに、いつか日ごとに交代していく人たちだって少なからずおります。
私たちホーリネス教団の信徒として歩んでいるもの。由木教会がどうかということは別として、年間の礼拝出席者の数がコロナの前から減少気味なのです。例えば1995年に礼拝出席者が5,692名いました。それが2016年(最新の統計)で4,974名。-716名。信仰者が信じる喜びをいかにキープしていくかは大事なことです。
現状維持できていればいい。そうでしょか?
救いの喜びを感謝を持って深めていく中にキリスト者に仕える意味と意欲が深まっていきます。けれども、習慣で、日曜日の朝になると礼拝に出かけていく。もちろん大切なことですけれども、ただただ習慣的なもので、行われていくということですと、あまり嬉しくない話しであります。

船出して漕ぎ出して、船は浸水し始めました。漁船というものは現在はレーダーや魚群探知機を備えていますけれども、それにしてもよく沈みます。ましてや2000年前の船は簡単に沈んだことでしょう。彼らは死の危険が迫っていると感じた。絶体絶命だと思った。弟子たちの過剰なパニックぶり、そして過剰にとは言いませんけども、主イエスの落ち着きぶりが、あまりにも対照的であります。弟子たちは波と風の両方が唸る音にパニックを起こした。
しかし一つ忘れていた。この船にはイエス様が共に乗ってくださっていた。弟子達は主イエスの落ち着きぶりに目をやるべきでした。主イエスが平安にあるとは思っていなかったんでしょうか。
「なんで何もしてくれないんだろう」「なんと無責任な態度なんだろう」
弟子達の心の奥底ではそう思えた。そういう態度に見えた。ですから言葉では言ってないかもしれませんけれども、顔の表情では非難したと思います。「なぜ何もしてくれないんですか」
もし主イエスがここにおいでになるということを弟子たちが正しく受け止めたら、無力から嘆くことはしなかっただろうと思います。悲しむことも非難することもしなかっただろうと思います。主イエスがここにおられるという、どっしりした重み。それが彼らには欠けていた。重みを持たない信仰は危機的な状況で役に立つことはないと言えるかもしれない。それは我々も同じです。

そこでイエス様は「黙れ、静まれ」(39節)と言われた。そうすると「風はやみ、凪になった。」
「黙れ、静まれ」は1章25節の汚れた霊に憑かれた人から悪霊を追い出した時に同じ言葉が使われている。確かに根源的な悪霊に投げかけた言葉ですけれども、同時に、船の中で平安の主と共にいることを忘れて、悪霊に翻弄される弟子たちに向けられた一喝だったかもしれない。弟子たちはここで呆然とするだけです。
人間の常識からすれば自然現象は信仰の有る無しが何かを変えるというようなこととは思えない。突風や暴風を引き起こす原因は人間には関係がない。そうを受け止めるべきです。これは自然の力であって不可抗力です。不信仰がどうのこうのという問題ではないと思います。しかしその上で、主がここにおられるという信仰の重さを持たない人は、「平安を見落とす」と言うこともできます。別の感情の嵐と言いましょうか、誰かが何かをしていないから、あるいは初めから無理な気象条件に船出をしたから。そうした責任論が弟子たちの内では巻き上がっていくわけです。
でも、この「黙れ、静まれ」という主イエスの叫びは、弟子たちを見捨てることができずに十字架への道を歩み続けるイエスの熱情が、つい表現されてしまった出来事と言えるかもしれません。いずれにしろ弟子たちが「ここに主がいらっしゃる」「ここに主がお出でになる」と言う、重みを持っていないことが問題であることは事実です。

「戦場に架ける橋」という映画がよくテレビで放映されていまして、私も何度か見たことありますけれども。泰緬鉄道という列車を通すのに多くのイギリスの兵隊たちが犠牲になったという事件です。あの場所で警備兵をしてたと言う人の経験談をラジオで聞いたことがあります。警備兵たちは日本兵です。日本兵たちはイギリスの兵隊に対して肋骨が何本も折れるほど殴った。その講演している人は、今から思えば本当に気の毒なことをしたというような話をしていました。
ところがこの出来事には歴史的な驚くべき信仰の物語があったのです。アーネスト・ゴードンという人が書いた「クワイガー収容所」という本があります。後々、プリンストン大学の大学教会の牧師になった人です。彼も散々虐待を受けた経験がある英軍捕虜の1人です。あるとき国際赤十字から聖書が差し入れられたそうです。何も楽しみのない捕虜たちがその聖書を読んで、暴虐の中で回心する人々が次々と出たのだそうです。やがて収容所内に教会ができた。絶望の支配する中で伝導集会が開かれた。聖書研究会が開かれ捕虜たちはお互いのことを思いやる余裕が生まれてきたそうです。やがて終戦を迎えて、負傷し、ウジだらけになっていた日本人に対してすら丁重に医療活動を施したということがクワイガー収容所の本の中には描かれています。誰かがイエス様を信じた。そしたら次々とその聖書を読むようになった人々が、地獄のような収容所を変えていったのだそうです。

嵐の中、不安と困難の中で、共におられる主イエスを見上げることすらできなかった弟子たち。しかしその弟子たちがイエス様の言葉によって新しい1面を見出した。イエスがここにおられるとは、そこに何かが起こりうるということです。そうしたことを改めて覚えます。

お祈り

神様。今もロシア軍による進行が進んでいるものと思いますけれども、どうぞこの人間の愚かを一刻も早くあなたが止めてくださいますようにお願いをいたします。私には12歳の時のことを思い出します。ちょうどハンガリーが自由化の叫びの中で社会の変革を目指したあの1956年の出来事を思い出すことです。当時の世界中の人々が「どうぞハンガリーを覚え助けてください」と叫んでいた、あの叫びを思い出します。しかしそれもむなしく戦車によって踏みにじられたあの出来事を思い出すことです。
どこが人間の進歩なんでしょうか。全く同じことが繰り返され、そして人が殺されていく。どうか、こうした事態が一刻も早く収められますように、あなたが望んでくださいますように心からお願いをいたします。どうぞあなたの恵みを、あなたなが与えてくださいますようにイエス・キリストのお名前によってお祈りを致します。アーメン。

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