救いをもたらす神の恵み

テトスへの手紙 2:11-14

今朝はアドヴェントの第二本のろうそくに火がともされました。教会ではアドヴェントと呼ばれるイエス・キリストのご降誕を静かに待ち望む教会の季節とされています。アドヴェントとは、神が実際の人間の歴史の中に飛び込んでくださった出来事として、イエス・キリストのご降誕を教会の暦の中に位置づけたのでした。

さらにアドヴェントにはもう一つの意味合いがあるようです。adventという英単語を、研究社の分厚いリーダーズ英和辞典で引くと、まず出てくる訳語は<待降節>ではないのです。

最初に出てくるのは重要な人物、事件変革、時代などの出現、到来とあります。その後に待降節、クリスマス前の4週間、キリストの再臨-つまりイエス・キリストは再びこの世界にお出でになる-と出てきます。キリストは再臨するという意味合いをこめてアドヴェントという語が用いられるのです。「最後の審判の日のキリストの再臨」と堂々と書かれています。

主イエスの最初の来臨が、時がみちるに及んで歴史の中で起こったように、再び神の時が満ちてよみがえりの主が、あらためてこの世に来られるというのです。キリスト教会は二つの来臨の意味をこめて、アドヴェントという言葉を理解し、祝い続けてきたのです。

主イエスによる最初の来臨を、第二の来臨を信じる根拠にしているのです。だからこそ私たちはクリスマス前のアドヴェントの時期は神への怖れと救いの完成の大いなる期待をここに抱いて、神に生かされていることを確信するのです。

「実にすべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(11節)。これは明らかにイエス・キリストの最初の来臨を指すと考えられています。キリストがこの世にお出でになった、

「祝福に充ちた希望、すなわち、偉大な神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の表れを待ち望む」(13節)。こちらは、これから起こる出来事です。主イエスによる第二の来臨、再臨のキリストへの希望が語られます。

このように見ていくと、私たちの人生はすでに起こったイエス・キリストの第一の来臨(恵みの出来事)と、これから起こると神が約束しておられる第二の来臨(希望の出来事)との間に置かれていることがわかります。私たちの罪や過ちにみちた人生も、悩みや闘いの日々も、また逆に喜びや感謝にみちた出来事も、恵みの開始と完成の時の間の中の出来事なのです。

そうであれば私の人生を動かしてきた神の恵みの力をしっかりと目を据えるべきです。私が神の恵みへと置かれてきたなら、その恵みにふさわしく生きてきただろうか、圧倒的な神の恵みにあってきたのなら、キリスト者として恵みの完成にどれだけ備えてきたか自分に問うべきです。

あらためて11節。「実にすべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」

ご覧ください。神の恵みはすべての人々に救いをもたらすのです。神の恵みはすべての人々、あらゆる人々に注がれる。神の救いを戴くのにただ一人の例外者もない。人の世に存在する一切の差別例外相違を超えて神の恵みは平等なのです。

確かに人間には様々な違いがあります。年齢だの、男女差だの民族だの、障害のあるなし、人種の違い。本来人間の価値とは結びつくはずのない違いが言われない差別をもたらしてきました。

神の恵み、神の救いを受ける対象に一人の例外者もいないのです。テトス書は「神の恵みはすべての人々に現われた」と告げます。この恵みを受けるにふさわしくないとして退けられなければならない人は、ただの一人としていない。という事は、世界のだれ一人として「自分はこの恵みにふさわしくない」と自己決定していい人もいない。そんな風に自分を見る必要はない。それは許されないことでもある。イエス・キリストを通して、神がすべての人々に差し出しておられる恵みは退けてはならない。そうすることは神の愛に背くことになるでしょう。

クリスマスは神が私たちと共に歩んでくださるとする神の愛の宣言です。

たしかに生きづらい社会に身を置いています。そんな社会で「神が一人ひとりと共に歩んでくださると言われても違和感しか感じられない」と思うかもしれません。しかし神は私たちと共にいてくださいます。それは時に、私たちが直面する困難なときも共にいてくださるのですし、死ぬときも、死んだ後も、復活の主として一人ひとりのかたわらに立ち尽くしてくださる再臨の主であってくださるのです。

(2021年12月05日 礼拝メッセージ)

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