平和を求めて

コリントの信徒への手紙二 5:16-20

今日は教会の暦では、平和聖日と呼ばれる主日です。広島、長崎の被爆者を覚えることがそのきっかけであったといわれます。この平和聖日の聖書日課は第二コリント5:16-20節の部分が与えられています。私たちキリスト者とは17節
「キリストと結ばれる人はだれでも(例外なしに)新しく創造された人ものなのです。古いものは過ぎ去り、新しくされた。」と著者のパウロは言います。その結果キリスト者は神と和解させられたので、キリストの使者(使いとしての)の役割が託されていると述べています。

キリスト者の務めとして6章1節、キリスト者は
神の和解の協力者(共同訳)
神と共に働くもの(口語訳・新改訳)

聖書にはかなり明確な平和のメッセージが語られています。主イエスの山上の説教は
「心の貧しい人々は幸いである 天の国はその人たちのものである」
から始まりますがその続きの7番目に語られたのは
「平和を実現する人々は、さいわいである、そのひとたちは神の子とよばれる」(9節)
英語では “Blessed are the peacemakers, they shall be called God`s children.”

キリスト教会の歴史において313年という年は忘れられない年です。この年、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認して、自らも洗礼を受け、キリスト教会が地下墓所の礼拝から地上に存在することを許され、公認教会となったのです。何もかも激しく変化したことでしょう。しかし喜ばしいことばかりではなかった。

国教化すると、キリスト教会は正義の戦争論を認めざるを得なくなります。迫害下のカタコンベで礼拝をし続けた二百数十年、初期の教会は絶対平和主義に立っていました。いわば憲法9条の立場をとり続けていました。
「キリスト者として、いかにして戦争することができようか。いいえ、できないのである。」
すでに軍隊に入っている兵士が回心した際には、契約期間中の軍隊離脱は死刑を意味したので、
「戦争に行くのはやむを得ない。しかし殺してはならない。」
と命じたのです。教会は
「私たちは、もはや剣を他国に向けることはしない。私たちはもはや戦争を学ばない。私たちは主イエスのおかげで平和の子になったのだから。」
と教えました。殉教者ユスチノスは
「私たちはすでに一度、互いにキリストにあって死んでいる。だから互いに戦争をするのは無論、尋問者に嘘を言わず、キリストを告白しよう。」
ローマ帝国の記録においても170年までにキリスト者が軍隊にいたという記録は見つからず、173年にケルソスなる人物がキリスト者が兵役につかないことを激しく非難する記録が現れるのだそうです。

しかしその後、教会は欧米で、ローマ帝国による公認教会となります。つまり教会は国教会、ないしは国家教会として成立してゆきます。もはや国家の戦争計画に反対する立場は失ってゆくのです。そして国家が戦争に突入するときには、多くの場合、正義の戦争論に立って、宗教の立場から国家の戦争を支えてきたのです。その中で従軍牧師、従軍神父制度が生まれてきました。

さて時代は下り、広島と長崎への原爆搭載機が太平洋のテニアン島から発進するときのことです。1945年8月6日に広島、9日に長崎に飛び立ちました。その飛び立つときに6日にはルター派の牧師が、9日にはカトリックの司祭ザベルカ神父が、ミッションが成功するように祈りを依頼されました。万が一乗務機が離陸に失敗したら、島全体が吹っ飛ぶ危険があったからです。ルター派の牧師は徹夜で祈りの文言を考えたそうです。

ザベルカ神父は9日に原子爆弾ファットマンを搭載したB29が無事発進しミッションが果たせるよう、司祭として祈りをもって送り出したのです。真相を知るまで彼は原爆投下は間違いではなかったと信じ続けていたのです。ところが日本の終戦と共に、彼はすぐに長崎を訪ねます。すべてが破壊された長崎を見て事の真相を理解します。まさか他ならぬカトリックの司祭である彼が、信仰をこめて、祈りを捧げて送り出した兵器が、日本におけるカトリックの中心地を破壊し、長崎の市街と共に、長崎の教会と修道院を破壊したことは歴史の悲劇であると言わざるをえません。その後のザベルカ神父は、原爆被爆地への謝罪と、核廃絶運動や核兵器反対の平和活動に身を投じていきます。自らがらがその使命成功のために祈って送り出した原爆が日本におけるカトリックの中心地をターゲットに投下され、教会が、修道院が破壊されたのです。

この説教をまとめる中で、ある新聞記事を読みました。実はアメリカ空軍が原爆投下を精密に実行するために日本全国、福島から長崎まで原子力でない通常兵器(原爆そっくりの外観、1個4トン半もの大きさの模擬原爆)を全国49か所に投下していたというのです。400人以上がなくなり、1,300人以上が負傷したのだそうです。通常兵器といっても4トン半の爆弾とは途方もない威力をもった爆弾です、東京には東京駅近くに2個、そして多摩にも今のICUに隣接した中島飛行機がゼロ戦の部品を作っていたことで爆撃ターゲットとなったのです。

研究者によると多摩の爆弾投下は原爆投下の予行演習と結論付けられているようです。

当時は原爆の真実を理解している人々はごく少数だったに違いありません、一日も早い戦争終結だけを願い原爆製造・運搬の微細な責任を担った。けれどその被害と悲惨さは予想もできないほどのものだった、

きょうは広島・長崎の原爆で突然人生を奪われた人々を思い起こすとともに、日本が軍国主義の渦に引き込まれた歴史を二度と繰り返さない事を国民一人ひとりが心に決めなおす日でなければならないと思います。

人は思い違いもしますが、神の協力者にもなれます。ローマ16章にコリント、テサロニケの教会に神の協力者とされた人々が登場します。ローマ人、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、裕福なものもいれば奴隷もいました。男も女もいました。しかしすべての人々が神の協力者でした。
最近コンスタンティヌス以前の迫害下にあったキリスト教会についての本を読みました(古代キリスト教探訪 副題―キリスト教の春を生きた人々の思索 土井健司著2003年)。著者はその迫害下の教会が生きた時代をキリスト教の春と呼びます。迫害下敵対したのがローマ帝国でした。こんなに勝ち目のない戦いは珍しいほどです。ところがそのキリスト者たちは正々堂々と巨大な敵に立ち向かい議論し、論破し、卑劣な迫害者たちを恥じ入らせ教会を発展させ、やがて社会のあらゆる階層に食いこみ、やがては皇帝自身を回心に導き社会を変えていったのです。だから迫害時代こそキリスト教の春だった。問われるのは状況の深刻さではなく、我々の信仰です。

(2021年08月01日 礼拝メッセージ)

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