新天新地
ヨハネの黙示録 21:1-5
ヨハネ黙示録21章は全聖書の最後の書。ほとんど終わらんとしている部分です。読む者の目の前に、生き生きとした情景が浮かび上がります。 新しい天と、新しい地が現れます。とりわけ新しいエルサレムが詳しく、目に見えるように描かれます。ヨハネが見たヴィジョンが、聖書の最後の情景として示されます。この中でもっとも大切な表現は、3節のカッコの中の部分です。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって・・・、神は自ら人と共にいて、その神となる。・・・見よ、わたしは万物を新しくする。・・・私はアルファであり、オメガである。・・・わたしは、渇いているものには、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」
この強調された<わたし>、 すなわち神においてこのテキストのメッセージの鼓動が波打つのです。
鼓動が波打つといいました。われわれは時々、幼い子供を抱き上げます。孫のまき君が教会にやってくると3歳くらいまでよく抱っこしたものです。わたしの鼓動は60くらいですが子どもの脈拍はその倍以上もあります。あらためて鼓動とはその人が生きていることのしるしであることを実感します。聖書のこの部分には、キリスト教的な希望が鼓動を打ちます。ここに神が生きています。初代教会のキリスト者のうちには希望のメッセージが生きていました。目に見える時代や社会はまったく絶望的に暗黒な時代でした。ローマ帝国の現実も将来も希望を見出すことは困難な時代でした。むごたらしい流血や、悲しみの涙が、世界を覆いつくしていました。その中でキリスト者達は希望を語り、希望に生き、希望を伝えていきました。「どこに希望が」と人々は問うたことでしょう。 現実を見ないで口先だけの希望を語っているのであれば、単なる無責任です。しかし、黙示録は、たとえば7人の天使(8章1-7)や4人の騎士(6章白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬に乗る騎士)を登場させ、桁外れの流血と死と涙を描き出します。しかし、それらを超えて黙示録では、最終的に希望のヴィジョンが勝利するのです。
たしかに黙示録の死と流血はローマ帝国の時代の一つの現実でした。けれど黙示録は涙と流血がローマの歴史と社会の全体像ではなかった。<見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住まわれる。>
死をもたらす天使や騎士たちが歴史の勝利者ではない。彼らはすでに捨てられ、<権力>や<暴力>は人を支配する最後的な力ではない。彼らも神の許しの中で、使われていたに過ぎない。わたしたちの世界は神の勝利、神の到来という、最終的な次元・ページを持つのです。キリスト者は孤独ではない。見捨てられても、放棄されてもいない。神がわたしたちの味方になってくださる。
個人の人生も同様です。人の人生は混沌と混乱の中で、終わるのではありません。人はイエスキリストの復活に土台しつつ、神が与えようとする人生を選び取って生きていくのです。人はいわば、神と向かい合いながら、神はわたしたちの人生の伴走者として走り続けることを、了解してくださった。これがこの時代のキリスト者の希望の根拠でした。
この聖書の部分は、新しいエルサレムが、天井から神話的に降りてきて恍惚的な歓喜が人々に与えられるという受け止め方があったと思います。しかしよく聖書を読むと5節に「見よ、わたしは万物を新らしくする。」
地上に神が住まわれる。無論、人と共に住まわれる。キリスト者の希望の神は、世界の神なのです。それはこの世、歴史的、社会的、政治的世界が神によって揺り動かされ、新しくされると言うことです。神によって、わたしたちの将来が、この地上に到来するのです。それはわたしたちのところにもたらされるのです。日本の政治は安倍だ、菅だ、枝野だと揺れ動いています。しかし、そうする中で、いつか、より大きな正義と自由が、より大きな喜びの実現を放棄してもならないと思います。時に、神が歴史のときに、顔を見せる。1989年から音をたてて始まった東ヨーロッパの変革について「よもやこんなことが起こるとは」と、思いもしなかった自由化が起こった。70年続いたソ連という国が崩壊するなんて誰が予測できたでしょう。ドイツのドレスデンやライプチッヒではじまった、人々や学生の勇気ある祈りと行動が引き金でした。その後、チェコやポーランドで示された勇気。ゴルバチョフのブレーンだったヤコブレフが「歴史が目に見えない一つの力によって押し流されている」と思わず言ったと伝えられました。見よ、わたしは万物を新しくするといわれた神の業は 具体的なわたしたちの町、私という現実に現されるのです。
21:4「神は、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや苦しみも叫びも、痛みもない。」
つまり人間のおかれた状況というものは死と痛みと涙があります。それは時代や社会と妥協して、適当にやっていくだけなら、涙も苦しみもない。奴隷の剣闘士(グラディエーター)の血みどろの戦いを見て楽しみ、公衆浴場で汗をながす生活をしているだけの生活で満足していれば、別に苦しむことはなかった。けれどローマの時代においても、生きることの意味や正義を人は問わざるを得なかった。そこに痛みや苦しみ涙が流されたとしても、ひとびとはキリスト教信仰に生き続けたのです。そういう生き方に神が宿られるのです。神はそうした人の苦しみや涙を見過ごさないのです。むしろその逆です。その苦しみに参与します。そして助け出してくださるのです。
マタイ12:20,21「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
信仰の歩みを目指しつつ、どこまでこの社会の伝道にお役に立てているだろうか。
しかしいずれ神が臨まれて、貧しい人たち、抑圧された人たち、苦しむ人たち、差別されている人の権利が回復されること、いな、勝利がもたらされることを期待していいのです。
<見よ、わたしは万物を新しくする>
可能性が開かれています。新しい神の世界に向かって生きていく思いを決して捨ててはならないのです。具体的には、教会や社会における隣人達の関係の中で、この確信を保っていくべきなのです。おもえば、わたしたちのこのかかわりも、じつは神の呼びかけと招きによるのです。忘れてはならないことです。だから「見よ、神の幕屋が人の間にあって・・・、神は自ら人と共にいて、その神となる。・・・見よ、わたしは万物を新しくする。」
数日前ユーチューブで、有名なジャーナリストAさんと、これまた有名な大学教授のMさんの対談を見ていました。特に思想の自由の問題が語られていました。大学教授のMさんが話の流れを遮るように、突然中国で抑圧されているキリスト教徒のことを話し始めたのです。彼らは別に政府批判をしたり、政治的課題を教会で問題にしているわけではない。ただ教会でひたすら聖書を学び続けている。それでも政府による弾圧にさらされている。彼らの今後こそ中国に大きな変革をもたらすかもしれない・・・というような発言をされました、
確かに極端な専制主義、独裁政治というものは突然、音をたてて倒れることは歴史の常です。
(2020年10月25日 礼拝メッセージ)