由井村隔離病舎

昨年の秋から、京王片倉駅のすぐ北側で発掘調査をしていました。皆さんは京王片倉という駅を使われたことがあるでしょうか? 私は今回が初めてで、これほど何もない駅が京王沿線にあるのだと、いささかショックを覚えました。なぜこんなところで発掘をしているのかと言えば、「八王子南バイパス」という国道を構築するためなのです。中央道の国立インターと圏央道の高尾インターを結ぶ壮大な計画路線で、20年前から一部工事が着手されましたが、いまだにいつ完成するのか誰も分からないというものです。その工事に先立って縄文遺跡があるという場所を発掘したのですが、出てきたのは、煉瓦積みの井戸とガラス瓶や陶磁器が詰まったごみ穴でした。琺瑯製の洗面器も出てきました。不思議に思いつつ、フレスコ南大沢にある東京法務局八王子支局で発掘地の地歴を調べてみました。法務局には「土地台帳」という台帳が保管されており、誰でもこれを閲覧することで、19世紀後半から現在に至る土地所有者の変遷を確かめることができます。発掘地の土地台帳を調べると、そこには「隔離病舎」という文字が記されていました。早速八王子市街にある郷土資料館を訪ねて隔離病舎について聞いてみました。すると130年前の東京も今と同じように急性感染症である赤痢が大流行していて、1897年に「伝染病予防法」という法律が制定され、各町に伝染病院を各村に隔離病舎を設置したことが分かりました。由井村隔離病舎は大字片倉に、由木村隔離病舎は大字下柚木に設置されました。八王子の伝染病院は、今の富士森公園にある体育館の場所にありました。

100年前には、今の新型コロナと同じようにペスト・コレラ・赤痢など様々な急性感染症が流行していました。当時は今のようにワクチンなど有りませんので、できることはとにかく感染者を隔離することでした。それも一度隔離されると二度と戻ってこられない。隔離病舎はもともと「避病院」と呼ばれており、「避病院」が「死病院」に通じるとされて改称されたほどでした。患者の人権などほとんど考慮されることなく、とにかく隔離することで社会を防衛することが第一に考えられていました。ハンセン病や結核などの慢性感染症は、症状の発現が緩慢なために恒久的な施設を設けました。ハンセン病は東村山に「国立療養所 多磨全生園」を、結核は中野の江古田に「国立療養所 中野病院」を設置しました。それぞれ広大な敷地に様々な施設が設けられましたが、隔離病舎は流行が終息すると建物ごと焼却処分にされることもあったということで、どのような規模の建物がどのような配置で建てられていたか、そもそもどこにあったのかということ自体が殆ど明らかになっていません。遺物では、個人病院の名称が記された透明のガラス瓶が大量に出土しました。その中で最も多かったのが「月花醫院」と浮き彫りに記した薬瓶です。調査地に隣接するお宅の高齢のご婦人とこんなものが出ているのですといったことを話していたところ、それは「つきはな」ではなく「げっか」と読むので、血縁の方が近くにお住まいですよと教えて頂き、早速訪ねて行きました。そして遺跡を調査したところ、こんなものが出てきましたといった話しをしたところ、ご当主の方のおじいさんにあたる方が100年前に八王子で医院を開業していたこと、八王子の花街などに往診に行った際に、近所の人から石を投げられたことなど興味深いお話しを伺うことができました。こうした話しは、まだまだ尽きることなく続くのですが、今回は紙幅も限られているので、この辺りで終わりといたします。

五十嵐 彰 (2021年08月08日 週報より)

おすすめ