私は復活であり、命である

ヨハネによる福音書 11:17-37

ベタニヤ村のこの一家は、日ごろからイエスに愛され、イエスを愛する親密な交流があったのでしょう。やがて本日のテキストに描かれているラザロの復活を経験して、マリアは主イエスの受難の前に、純粋で非常に高価なナルドの香油を、救い主の葬りの備えとして主イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でその足をぬぐっています。主イエスの言葉によれば、マリアは高価なナルドの香油をイエスの葬りの日のためにとっておいた。弟子といわれる人々の中で、唯一キリストの死を予感したマリア。それほどまでにラザロ一家と主イエスは深い関係で結ばれ、マリアは主イエスの死を予感していたのです。それはあくまでラザロの復活を見た後で、ラザロ、マルタ、マリアの一家は、別人のように深い主イエスへの理解に導かれたからだろうと思います。

愛するという関係は相互の関係ですから、感情でも言葉でも、行き交うことです。決して一方通行ではない。神の愛を求めようとすれば、神を愛することが必要でしょう。「神さまどうぞあなたのお恵みを」と祈りながら、人は神の信仰への招きにどこまで素直に応じ切れているのだろうかと反省させられます。

主イエスがベタニヤ村に着くと、マルタとマリアは主イエスに向かって同じ言葉を語ります。

11:21節マルタ、11:32節マリア
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

その時、主イエスは別のところにおられた。マルタとマリアは至急おいで下さいと頼んだ。けれど主イエスはなお二日そこに留まっていた。(4節)
ラザロは死んでしまうかもしれないから、できれば急いで。・・・にも拘らず主イエスがお出でになられたのはラザロの死後4日たってからだった。(6節)

「実際死後4日もたってここに来ても何になるの!」という思いがマルタ、マリアにはあったと思います。愛する者の死は、悲しみそのものです。しかしだれでも人間の歩みはいつか終えねばなりません。若くして亡くなる人もいれば、長命を全うする人もいます。私たちはいつか人生を終えます。それぞれに尊く、それぞれに意味を持った私たちの人生です。人生は音楽に似ています。モーツアルトでも、ショパンの音楽でも息をのむように美しく一瞬響きます。けれど音は瞬時に消えてしまいます。でも聴く側に深い感動を残すのです。人生も、死なない人生はありません。それはありえないし、不自然です。だからといいますか、イエスキリストが十字架で死なれ、やがて復活された。信仰者はこのいけるキリストに出会い、心かえられ、励まされ、永遠の世界にタッチされるのです。

ここで主イエスの感情が高まります。33節<心に憤りを覚え・・・>。口語訳では【激しく感動し、また心を騒がせ】【また激しく感動し】でした。ですが、共同訳もそうですが、最新の岩波訳も、<憤りを覚え、かき乱され>と訳されています。マルタとマリアは、周囲の人々とともに、一方的に悲しんでいます。大切な家族が突然亡くなったのですから、悲しいのは当然です。主イエスも悲しんで涙を流された。しかし主イエスの涙はそれだけではないようです。ただ悲しみに沈んでいるマルタ、マリアを見て、主イエスは深い同情をもって、そして怒りの思いがわいてきた? そこには何らか解釈上の変更を予想せざるを得ないのです。

そも主イエスはラザロを起こしに行くとして、ここベタニヤ村に来ました。イエス・キリストは特別な存在の方です。主イエスに呼びかけられ、受け入れられ、永遠の命に招き入れられた人は、主イエスの栄光に与(あずか)るのです。私はイエスキリストの人間的な温かさを、この上なく有難いと思います。しかしイエスの人間性は、ただの人間性ではないのです。一人の人間を救うために主イエスは存在をかけ、その生命すら差し出される方です。

イエスがイエスであるためには、イエスがただの人間であることだけでは到底できないのです。兄弟ラザロの復活ということでした。その出来事はマルタとマリアを根底から変える出来事でした。マリアはその純粋で非常に高価なナルドの香油を主イエスに注いだのでした。

その永遠の命に生きることが人にも許された。「私は復活であり、命である。私を信じるものは心でも生きる。生きていて私を信じるものは誰も決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25節)

イエス・キリストがいなければ死は決定的な喪失、決定的な別れでしかない。

しかし主イエスの十字架と復活によって、人は永遠につなげられるのです。それも私たちが地上の日常を生かされたとき、神に出会わせられ、神の前に生かされたときこそ、日常が永遠に出会わせられたのです。そこから死は別離で亡くなるのです。いわば永遠の世界へ飛び立つ離陸路になるのです。

主イエスがおいでになるまで、ラザロをめぐる村人、マルタ、マリアは、死後4日、死臭ただようラザロの肉体を前に圧倒的な死の力に打ちのめされていました。
「主よ、もしここにいて下さったらわたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
主イエスはラザロの復活を通して、イエスとは何者であるかをあらためて示したのです。しかし主イエスは単に神の力を見せ付けることによってではなく、涙を流して人々と同じところに身をおきつつ、イエスが復活の体現者であることを示されるのです。

主イエスは聖なる憤りをもってラザロを甦らします。ラザロの肉体は二度と死なない身になったのではありません。やがての日にラザロは亡くなった。でもマリア、マルタは「主よもしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とは二度と言いませんでした。兄弟のため涙を流し、まことの神、まことの人として自らを捧げてくださる主イエスは、いつもともにいてくださる方だからです。
信仰者は父なる神さまから栄光をを受けられたイエスに結ばれた方々なのです。いわば永遠を身に負っているのです。「復活者主イエスにつながれた」とは「天につながれたもの」とされたのです。だから死に直面しても平安にこれを迎えられるのです。

(2021年04月25日 礼拝メッセージ)

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