神を信じなさい

ヨハネによる福音書 14:1-6

ヨハネ福音書は14章から16章まで、主イエスが最後の晩餐で弟子達に語られた長い説教が記され、17章が最後の祈りです。これらの言葉はマタイ、マルコ、ルカ福音書には記されていない。ヨハネ福音書だけに記されています。

①1節・2節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。」

主イエスは去って行かれるといわれる。この時点で主イエスはその身の上に何が起こるのかを熟知していたわけです。主イエスはローマの法律の下に残虐非道な十字架刑に処せられます。弟子たちは彼ら自身も同様な刑罰に処せられるのではないか。このまま主イエスに従ってゆけば、自分たちは破滅に至るほかはない。彼らの心境は、いてもたってもおれない不安に打ちのめされていたことです。

そこで主イエスは弟子たちの不安を鎮めるために「心を騒がせるな」「神を信じなさい」「私をも信じなさい」と力強く3つの命令をなさったのでした。

第1の命令は「心を騒がせるな」はじつは先週ラザロの復活の記事において、ラザロが死んで3日目に来られたイエスの前にマリアがひれ伏し「もしここに生きているうちにおいで下さったら、わたしの兄弟は死なずに済んだものを…」とマリアが嘆いた。それを見て共同訳は、主イエスは<心に憤りを覚えて>と訳し、以前の口語訳は<感動して>と訳しましたが、文脈上では繋がりにくいように思います。やはり弟子たちは信仰を揺るがせて、心動揺したのです。ですから「心騒がせるな」「神を信じなさい」「わたしをも信じなさい」と命令を連発したのです。

②主イエスは行って場所を用意したら戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える。(3-5節)

<行って>とはどこに行かれるのでしょう。「場所を用意する」とはどういう意味でしょう。
<行って>は

  • 第一に<十字架にかかるために>行かれる。イエスはこの弟子たち、ユダヤ人たち、異邦人たちの身代わりとなられて、罪の刑罰である死を引き受けられるのです。そして私たちの罪を許されるのです。
  • 第二に<復活の栄光に>向かって行かれます。主イエスは三日目に蘇られます。復活の栄光と勝利に向かって行くのです。
  • 第三に<天に昇って>行かれます。イエスは復活され弟子たちの前に現われて40日目、彼らが見ている中、 天に昇って行かれた。
  • 何のため行かれるのか・・・弟子たちのため、イエスを救い主と信じるすべての者の、とこしえに、主と共におられて、永遠に揺らぐことのない居場所である、慰めと感謝と喜びのつきない場所、その居場所に私たちを迎えるために、主イエスは十字架で血を流し、肉を裂いてくださるのです。

「行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来てあなた方をわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいるところにあなたがたもいることになる。」(3節)

<こうして私のいるところにあなたがたもいることになる。>と主イエスが言われると、疑い深いトマスがすぐさま反応します。「主よ何処にいかれるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」(5b)

その答えこそ今日のテキストの結論です。いわば神の断言です。イエスは言われた。
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も父のもとに行くことはできない。」

これは説明ではありません。この言葉でどのくらい多くの人がキリストに身を委ねて信仰の道を歩き出したか計り知れません。中には人生に行き詰まり、生か死かの、分かれ道に立たされて、イエスを人生の生きる道と思い定めて人生を歩み始めた人も数えきれないほど多くいます。主イエスはこんなにわかりやすい信仰入門を短い言葉で表されました。主イエス自身が道なのです。真理を知ろうとする人はイエスという道をたどればいいのです。イエスはまさに道そのものなのです。

主イエスは十字架において、ご自身の血を流し、肉を裂いて、私たちの不信仰という罪を許し、神の子としてくださいます。主イエスは人々に踏まれ傷だらけになって、私たちが最後に憩う居場所へと導いてくださいます。

トマスの問い5節「主よ何処へいかれるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」
それは私たちの問いです。聖霊が臨み主イエスは語られます。それはある人にとっては信仰的仮定のように響くかもしれない。主イエスは私たちを彼の居場所に導かれるといわれます。そここそ死を超えた真実な、命の道、永遠の居場所です。

主イエスはそこで人がどちらを選ぶのかの選択を迫ります。

「心騒がせるな」「神を信じなさい」「わたしをも信じなさい」と命令を連発したのです。

(2021年05月02日 礼拝メッセージ)

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