神を宿して

コリントの信徒への手紙一 1:10-17 (3:16-17)

パウロが力を尽くして、小アジアからギリシャ地方に向けて次々と伝道がなされてゆきました。ネアポリス、アカイア地方の教会群ぱ出来上がっていきました。テサロニケ教会、コリント教会、フィリピの教会もその流れの中で創設されていきました。とはいえ初代教会そのものも異邦人キリスト者をどう迎えるべきかで異論を抱えていましたし、各個教会においてもそれぞれに人の集まりゆえに意見の相違は教会の中での不和や争い、憎しみにすら立ち至っていました。

問題はクロエの家からパウロに伝えられていました。実はフィリピ書にも、問題の内容や時期は別ですが、かなり深刻な問題が伝えられます。そうした紛争は教会にはふさわしくないことです。教会についてすべての人々の願いは<一つになること>です。それがこんな問題を抱えることになるなんて、キリスト教会として致命的な出来事というほかありません。パウロは言います。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結びなさい。」(1:10)

実はクロエ家からの報告によると、その分裂とは4つの派―パウロ派、アポロ派、ケパ派、キリスト派に分かれて争い合っているというのです。

第1はパウロ派。 自分はパウロに就くというひとがあった・・・らしい。パウロはアテネ伝道をしたときにアテネからコリントに行きました。そこでアクラとプリスキラというパウロの生涯の大切なときに手を差し伸べてくれたユダヤ人信徒に出会ったのです。パウロはコリントで、ユダヤ人の会堂で、安息日ごとに1年半もの間、天幕つくりを生業としながらコリント伝道をしたのです。ですからコリント教会にはパウロを慕う人が多くいても不思議はありません。この人々が、自分たちはパウロに着くといったというのは心情的には分かるような気がします。

第2にアポロに就くという人々がいました。アポロは使徒言行録によればエフェソで長く伝道をし、後にコリントに移り聖書を教えた(使徒18:24-19:1)。アポロはアレクサンドリア生まれのユダヤ人で、アレクサンドリアはエジプトですが、ここで旧約聖書がギリシャ語訳され、ユダヤ地ギリシャ文化が融合され洗練された年でした。アポロはそこで生まれ育った教養豊かな説教者で、その教養と雄弁な説教で人々を魅了したのでしょう。コリント教会でアポロ派が生まれたのは理由があります。

第3はケパ派。ケパとはペトロのことです。ペトロはある意味ではアポロとは正反対の人です。彼はガリラヤの漁師出身の素朴な人です。当然、哲学だの教養だのは無縁な人です。けれど彼はエルサレム教会の最も重要な人物です。エルサレムこそキリスト教の中心地です。ケパ・ペトロの語り方は無学で素朴だったかもしれない、でもその素朴な語り口ゆえの信仰の真実がありました。真実こそ人の心を打つのです。

第4番目にキリスト派というのが登場します。正直言ってこれがどういう人々なのかはわかりません。というかパウロ派、アポロ派、ケパ派と口で言いながら、それは教会の分派活動を生み出すことがわからないのです。パウロも、アポロも、ペトロもイエスキリストの広大無辺の慈しみの、そのごくわずかを証する存在でしかないのです。パウロも、アポロも、ペトロも、 むろんキリストもコリント教会にとっては、なくてはならない大切な尊敬すべき存在です。この4つのグループはそれぞれに手を携え協力すべき存在で、たがいに分裂し不破と対立を作り上げることなど、まったくナンセンスで罪深い所業と言わざるを得ません。本来対立するカテゴリーではありえないからです。

パウロはコリント教会がそうした現実であることを嘆いて、それでは<あなた方は互いの間に妬みや争いが絶えない(3節)><肉の人(1節)><乳飲み子(1節)>と改めて分派の現実を指摘せざるを得ませんでした。実は聖書では(一つの言い方ですが)信仰者のことを<聖徒(せいと)>と呼びます。
<コリントにある神の教会へ、すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリストイエスによって聖なるものとされた人々へ。イエス・キリストはこの人たちとわたしたちの主であります。>(1コリント1:2)

今私たちは神のために活きています。そう信じたからこそ、今日、教会に来たり、あるいはリモートで礼拝に参加しています。わたしは50年も教会生活をしています。つくづくこの決断を20歳の時にしたことが良かったと思います。こんなに人生を豊かにしてくださった神さまに感謝するだけです。

それは個人の単なる信仰的決断。別に特別なことでも、特殊なことでもない信仰の歩みを私たちは歩んで来た…と思ってきました。ところが、そのことを使徒パウロは「神の聖霊が宿ったゆえの出来事だ」と語ってくださるのです。私たちが神の神殿なのでしょうか。たいした力もなく行動力もない。でも確かに私はそれから半世紀近く礼拝に出席し続けています。3章16節には<あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分のうちに住んでいることを知らないのですか。>と畳み込んでくるのです。キリスト者はその大半が掲げた信仰生活を曲げないで生きるのです。皆さんは信仰に入って何年になりますか? 入信したころのスリリングな感激は忘れられないものです。

何の力がそうさせるのでしょう。聖霊は力です。私たちの身体を聖なるものとして住まいとする神がおられて、このことが可能になるのです。また信仰によって繋がれたかけがえのない人々にも、どのくらい出会ったことか。感謝のほか何もありません。

(2021年09月05日 礼拝メッセージ)

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