み言葉を行う

ヤコブ1章19-27節

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ヤコブ書では、貧しい人々にこそ神の目はそそがれ、富む人は低くされるとさえ言います(1:9-11)。様々な価値観が渦巻く中で教会にも主イエスにふさわしくない在りようが目を覆ったのでしょう。
一つは教会共同体の貧しい人への対応です。人々は、主イエスが貧しい者の味方であったことは知っていた。でも実際には富んでいる人々にこびへつらい、貧しい人々を侮蔑的に取り扱ったようです。(2:1-17)
イスラエルの伝統の中で寡婦、孤児、貧しい人々への慈善や貧しい労働者への支払いは律法で定められていました。でも実際には貧しい人々は差別され、踏みにじられていたのです。ですから預言者たちは繰り返し、富める人が律法を軽視していると非難し続けました。

彼らは町の門で訴えを公平に扱うものを憎み、真実を語るものを嫌う
おまえたちは弱いものを踏みつけ
彼らから穀物の貢納を取り立てる故
切り石の家を建てても
そこに住むことはできない。
見事なぶどう畑を作っても
その酒を飲むことはできない。
おまえたちの咎がどれほど多いか
その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。
おまえたちは正しいものに敵対し、賄賂を取り
町の門で貧しい者の訴えを退けている。      

アモス書5章10-12節

(イザヤ5:8-12も参照)

ヤコブの視線は預言者の言葉を通り越して、さらに厳しいのです。
富む人々は単に金儲けができた人々ではなく、彼らは一つの階層として労働者を敵視することによって富を蓄積したのだ。富裕層に属する信仰者は自らを謙遜に、当然貧しい人々への配慮をすべきと要求するのです。(ヤコブ5:1-6)

さて1章19節から言われていることは、み言葉を行う(ト書きには「神の言葉を聞いて実践する」)です。

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。

1章19-20節

この手紙が書かれた「離散したユダヤ人が住む1」ギリシャ文化の世界では弁舌が尊重され、相手を議論でねじ伏せようとして、結果的に人間関係が壊れたり上下の関係がつくられてゆく。それは教会にはふさわしからぬことで、ヤコブはこう語らざるを得なかった。
もっとも、ここでヤコブが言う「聞く」とは、人間の言葉ではなく神の言葉です。常に思いを神に向け「み言葉」を素直に受け入れる姿勢です。「話す」と言われるのも、まずはみ言葉を聞き、その上で他者に伝える。つまり「聞く」ことなしに「話すのに早い」のは偽預言者というわけです。
み言葉を語りうるとしたら、まず相手の立場を尊重し、相手に深い敬意を表しつつ、粘り強く優しく語り続ける。み言葉が受け入れられないとしても、それは「相手が悪い」からではないのです。まして「相手が神の義へ反逆しているのだ」などと言って怒ることは、神の義を全うすることにはならない。

神のみ言葉は元々、我が内にあったものではないのです。外からわたしたちの「心という畑」に植えられた。福音書でも、み言葉という種が道端や、いばらや、良き地に植えられるという譬話があります(マルコ4:14以下)。受け入れ側の心次第で30倍、60倍、100倍の豊作にもなるし、その逆で種が枯れてしまうこともあります。
人の心は泥にまみれることもあるし、マイナスの力に突き動かされそうになることもあります。様々な誘惑にもさらされます。けれど<み言葉には魂を救う力がある>。み言葉とはヨハネ福音書1章においてはイエス・キリストご自身です。今日の私たちの霊的状態がたとえ危機的であっても、イエス・キリストはわたしたちを救うことができる。

22節は、まさにヤコブの主張です。ヤコブ神学とでもいえるものです。それゆえルターは、ヤコブ書は藁の書と言った。やはり行いの伴わない信仰はありません。心動かされれば、それは何らかの行動に繋がってゆきます。人生に信仰をしるすはずです。

2023年8月20日 礼拝メッセージより

  1. ユダヤ人はなぜ離散したかと言えばさかのぼれば紀元前6世紀のバビロン捕囚です。祖国がなくなってしまったものですから世界に離散したのです。 ↩︎

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