キリストの昇天

マタイ福音書28章16-20節

Please accept YouTube cookies to play this video. By accepting you will be accessing content from YouTube, a service provided by an external third party.

YouTube privacy policy

If you accept this notice, your choice will be saved and the page will refresh.

4つの福音書がわたしたちに語り伝えていることは、神は4人の著者を通して、イエス・キリストを世に送り、人類を救うために十字架につけさせたと言うことです。それは、人には自分でも自覚しないほどの罪深さというものを心の中に包みこんでいて、それは神の御子が直接登場して、十字架にかからねばならないほど深く底が見えないほどのものであるということです。それだけに、それは神が人間を救おうとする思いの深さということができます。

ですが大きな問題がありました。<命令された側の人々です。11人の弟子達です。わずか11人です>。1ヶ月前なら弟子と言われる人々は何千人もいたかもしれない。主イエスが声をかければ5,000人、1万を越える人々が集まった。しかしその人々は十字架の一件で潮が引くように姿を消したのです。99.9%の元弟子たちはここにはいませんでした。それどころか12人の弟子さえも怪しくなっていた。弟子の一人は主イエスを銀30枚で売ったことを悔いて自殺してしまっていた。トマスはイエスの復活のうわさを聞いてはいたが、それを信じることはしていなかった。何よりも弟子の中心人物であるペトロは主イエスの弟子であることを放棄しかけていたのです。他の弟子たちは、十字架にかかる直前までなら、互いの序列競争に必死でした。主イエスの心を理解などしていませんでした。何よりもこの時、主イエスがこの命令を弟子達に与えているときでさえ、<イエスにあいひれ伏した。しかし疑うものもいた。>(17節)。「Some doubted.」複数形です。何人もの弟子たちが目の前にいる主イエスを疑っていた。彼ら自身、このような命令を受けて、何ができるのかと思っていたに違いありません。客観的に見ても、とても主に選ばれて全世界に伝道のできる人たちであるとは思えません。

しかし結果から見ると、この10日後、ペンテコステの日に、人々を恐れて戸を締め切って、鍵までかけて祈っていたときに聖霊が降ったのです。なぜか、彼らのうちに不思議な力と勇気が沸き上がったのです。戸を開いて人々に伝道することができた。その日に3,000人が悔い改めたというのです。今日のわたしたちは11人よりは少し多い。たしかにこの12人という人々は、主イエスが祈りに祈って召集した人々でした。でも彼らは主の弟子にふさわしいから選ばれた者でないことは確かです。また見込みがあるから選ばれたのでもなかった。われわれ自身もなぜ神に導かれて、神の民の一員とされたのか。選ばれたとは言うものの、なお弱く、何をどうしてよいのか分からない者です。主イエスはわれわれのような、12人の弟子達のような普通の人々を選びます。そして御自分の一つの教会としてお育てになるのです。

今日の聖書日課(マタイ福音書)ですが、これはユダヤ人の間に広まった伝聞として伝えられています。しかし伝聞にしては大きな騒ぎなのです。話の発端は27章62-66節から始まります。すでにイエスは十字架上の死を遂げ、墓に葬られたのです。もう話しも出来ないし、行動も起こせない存在になったのです。ですから主イエスの敵たちは、もう<イエスと仲間たち>を恐れる必要はなくなったのです。イエスの死を確かめたのですから勝利宣言をして祝いの席を設けていいわけです。枕を高くして寝付けるのです。しかし実際には、主イエスの<やがて復活する>という言葉を思い起こして、怯えきっているのです。(27:62,63節) 
そこでローマ総督ピラトに、ローマ兵を派遣して墓の警護までを依頼するのです。(64節) しかしピラトはこのイエスの問題に介入するのを嫌がって、祭司長の申し出を断ります。(65,66節) ですから、彼らはすばやく兵を派遣して墓を封印させたのです。しかしそれでも主イエスの復活の出来事は起こってしまった。
兵達は主イエスの復活を知ったとき、巨大な神の力を目撃し、祭司長たちに報告したのです。何を報告したかといえば、これほどの厳重警備を敷きながら、イエスの復活を押しとどめることが出来なかったということです。つまり神殿警備の兵たちも最初のイエス・キリストの復活の証言者となったのです。

さて今日のみ言葉は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で締めくくられます。これは単に形式的な結語なのでしょうか。わたしは、マタイは主イエスのこの言葉を伝えるために筆を執ったのではないかと思ったのです。マタイは幼子イエスの誕生物語も、<このすべてのことが起こったのは神が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。>(つまり、インマヌエル「神は我々とともにおられる」)と冒頭に語るのです。

私はいつもあなたとともにいる。

言葉に出して言えるこの関係の根源には、愛するという確固とした意志と、熱い感情なしには成り立たないのです。確かに十戒が語られる出エジプト記20:5に「わたしは主、あなたの神。私は熱情の神である。」と語られています。たとえ相手とする弟子が、今は頼りにならなくても、信頼がおけなくても、信仰すら怪しくても、神の愛がそこに注がれるなら人は育ってゆきます。愛するからこそ、いつもそばにいてほしい。それも圧倒的な赦しをもって主イエスが弟子たちに語ってくださる。それは<今>わたしたちに向けられている。そう信じることが許される。

マタイ福音書26章、27章、28章で描かれた主イエスさまの受難は、言わば、弟子たちがいかに主イエスさまを理解出来ていなかったかが暴露された出来事でした。そして決定的に弟子たちは主イエスの前から姿を消します。やがて行く先を失った弟子たちは、エルサレムの2階屋に一人また一人と集まった。そこへ主イエスが現れて40日もの日々、弟子たちに教えられました。そして最期の最後に雲に覆われて天に帰られました。この時にお別れの言葉は無かった。この方は、はるか遠い天の高みにではなく、私たちの傍らから私たちのためにとりなしていてくださる。

2023年5月21日 礼拝メッセージより

おすすめ