隣人を見出す

ヤコブの手紙 2:1-12

ヤコブ書の2章は差別の問題がテーマになっています。差別といっても使徒ヤコブが日常関わる具体的教会における差別のことです。差別は広辞林を見ると、<ある集団、あるいはそれに属する人を、他から分けて社会的に不平等な扱いをすること。>とあります。国や文化や歴史を越えて、肌の色、ジェンダー、障碍のあるなし、ユダヤ人であるから、アラブ系だから、性差別-女性だから、被差別部落出身だから、その人がどんなに高潔で、志高く、金持ちであっても、関係ないのです。19世紀のドイツザクセンの高名な大作曲家であったメンデルスゾーンは祖父の時代からライプツィッヒでは銀行家として知られた大金持ちでしたが、同時にユダヤ系であるからという理由で、徹底的に陰湿に差別されました。差別とは入り口で分け隔てられることです。この人は死後ヒトラー政権下ではドイツ中に作られていた銅像はすべて爆破され、撤去されていました。

ヤコブ書の著者は、裕福な人による貧しい人へのあからさまな差別が、他ならぬ教会で露骨に行われていたことを、繰り返して批判します。

「イエスキリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また汚らしい服装の貧しい人も入ってくるとします。その立派な身なりの人に特別に目をとめて『あなたは、こちらの席におかけください。』と言い、貧しい人には、『あなたはそこに立っているか、わたしの足元に座るかしていなさい。』というなら、あなたがたは自分たちの中で差別をし、誤まった考え方に基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」(1-2節)

著者のヤコブは、実際に教会の中で、自分には信仰があると公言する人々の中で、やはり教会にまだ未熟と思われている、つまりより短い信仰歴の人々を軽視する差別問題として提起しているようにもみえます。教会は総体としては、民族や、国家や、階級をこえて世界の問題や、人間そのものの問題について理解しよう、解決しようと心がけてきたと思います。しかし至る所で、直面する現実に押し切られて、少数者を差別したり、権力者の道具としてそのお先棒を担いで、行動してしまったケースは多くあります。

中央アフリカにルワンダという国があります。長年周辺国も含めて民族紛争が絶えず、26年ほど前に100日で100万人が殺害されたという到底理解も容認もできない無差別殺人が起こったのです。先週、事件の首謀者とされていた人物が潜伏先のパリで逮捕されたと伝えられました。しかも当時も今もルワンダは数から言えば80%を越える人々がキリスト教の信者です。しかし長年、ベルギーの植民地政策の中で形作られたフツとツチと言う民族間の亀裂、憎悪、軋轢に、キリスト教信仰が無力だった。突如憎しみが煽られ僅か100日で80〜100万人が殺戮されるという出来事がおこされた。―小さな単位では夫婦や家族から始まって、民族や国家に至るまで、キリスト教信仰をどう生きていくのかは、お互いの大きな課題でしょうし、そこに当然あってしかるべきキリスト教信仰が、空洞化するということは恐ろしいことです。その空洞化が1930年代のドイツであり、1990年代のルワンダ事件です。何の実体もなく、民族主義や、国家主義による憎悪に、取って代わっていたサタニックな感情の嵐に、なすがままに突き動かされていたというのでは人間に希望はないのです。先週になって事件の首謀者がパリで拘束されたと伝えられました。

キリスト教は、もっとも初期の教会において、男性はユダヤの慣習、伝統である、割礼を受けること、犠牲を捧げることは必須のことでした。そうして形の上でユダヤ人になることは、信者となる必要な要件でした。この手紙の名前であるヤコブは、以前は基本的にはそうした立場に立っていた。しかし教会が盛んになってローマ帝国全体に伝道が進むと、やがてユダヤ主義を超えて、民族主義、国家主義を超えていったのです。そこには生まれたばかりの教会が分裂するのではないかと思われたほどの意見の対立がありました。教会の代表者ペトロでさえ最初は抵抗したのです。差別や偏見を越えるためには人は大変な努力が求められるでしょう。自分たちだけが清く、あとの人々はそうではないかのような、狭く、差別的な選民主義。それがもたらす差別と偏見は清算されねばなりませんでした。

さらに教会が発展すると、教会にも裕福な商工業者も出入りすることも当然起こります。(4:13-5:6)かなり激烈な言葉が並びます。

手紙の受け取り手の教会に富裕な信徒が存在していたようです。

どうやらこの手紙の教会指導者が、礼拝で、貧しい人々を富める人々の前で差別することが日常化する現実があったようだと、説明されています。それはイエスキリストが示された教会の姿から、はるかにかけ離れた姿です。ドイツでも、イタリアでも地元の教会の礼拝に出席すると、必ず平和のあいさつがあります。心からの歓迎を受けます。教会はだれでも、一人残らず心から受け入れられ、歓迎されるところです。世間では必ずしも歓迎されないで、後ろ指さされる人でも、教会では、こよなく歓迎されるべきです。

ヤコブ書の著者は、そこで持ち出すのは、敵対関係でなく、差別関係でなく、隣人となると言うことです。隣人といってもただ隣り合うだけではありません。主の名によって結び合わされた関係として隣合いなさい。隣人として、憐れみを行えと言うことです。隣人とは寄り添う関係だと思います。

この説教のために何度も何度も聖書をくりかえして素読しました。別にどうという事もないのですが、このヤコブ書の受け取り手の間に、ヤコブは「何が原因であなた方の間に戦いや争いが起こるのですか…」と問うています。教会内の対立と紛争は<戦いや闘争>のレベルまで立ち至っていたようです。けれどヤコブは一方に離散して孤独な信仰の戦いを強いられているユダヤ人信仰者に向かってこの短いヤコブ書という書簡の中で、繰り返し繰り返しある部分はパラグラフごとに、<わたしの兄弟(姉妹)たち!><私の愛する兄弟・姉妹!><兄弟・姉妹たち!>と呼びかけます。数えてみました。ヤコブ書の中に13回くらい<わたしの兄弟(姉妹)たち!><私の愛する兄弟・姉妹!><兄弟・姉妹たち!>がくりかえされるのです。

単なる人としての愛ではなく、ヤコブはわざわざ<憐み>といいます。主イエスが悪霊につかれた人、罪びと、取税人に与えたのはまさにこの憐みの愛でした。また主イエスに愛され憐みの愛に生かされた人は、この憐みの愛を示すことが求められるのです。ただ憐れみの根源は神にあります。神こそ憐れみにあふれた方です。エゴの塊でしかない人間が、神の憐れみに預かって、憐れみに生きるものと変えられるのです。神の憐れみが神と人をつなぎ、憐れみに生きる人が、新たな人と人の関係を築いて隣人との関係に生きるようになるのです。

(2021年09月12日 礼拝メッセージ)

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