罪ゆるされて

コリントの信徒への手紙 5:6-10

私事(わたくしごと)にかかわりますが、わたしにも一人のかけがいのない友人がいます。彼の年齢は80歳近く。引退牧師ですが彼に言わせると腹筋は見事に割れているそうで、外見も肉体的にもこの上なく若々しくみえます。70歳を越してからアメリカの神学校に入り3年間ヘブライ語学び、今は現代ヘブル語を学び続けています。なぜそんなに遅い留学かというと、若い時代は由木と同じようにゼロからの開拓伝道を進めていたので、余裕がなかったからのようです。

この人、最低月に一度は私に電話をしてきます。彼の思い次第ではそれが2度、3度ということもあります。愛妻家で妻の誕生日には必ず花をプレゼントしています。大変誠実で、信仰的、好人物なのです。その彼が前回電話の中で、ふと自分は人生を終えて主の前に出た時、主の目にかなうかどうかわからない…と口にしたのです。

じつはその週にわたしも同じような思いに駆られていたのです。牧師であれば朝から夕まで信仰について思いを傾けます。それでも人の心には様々な雑念、妄想が去来するものです。使徒パウロは「わたしたちは皆キリストの裁きの座にの前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」

マタイ25:33節以下に主イエスはこう言われました。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてその栄光の座に着く。そしてすべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊とヤギを分けるように彼らをより分け、羊を右に山羊を左に置く。」

本日の聖句の最後の10節もパウロは
「なぜなら、私たちは皆、キリストの裁きの座にの前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて報いを受けねばならないからです。」

これは単に彼の問題意識にとどまりません。我々も神の最後の裁きの座に立たなければならない。

■私は右側に立つものなのか?
■それとも左に立つものなのか?
■光の子なのか
■それとも闇の中にあるものなのか
■胸に手を置いて、自らの心に問う。主イエスは敵を許しなさいと言われた。しかし最も身近な同伴者である親を、連れ合いを、許せない、という人は少なくありません

こうして自分自身を問うことは大いに意味深いことなのです。パウロでさえ
「善を行おうと思いつつ、自分のこころには悪が付きまとっていて、罪のとりこになっている。」
わたしはなんというみじめな人間なのかというと自分をみつめました。(ローマ7章後半)

2コリント5:10で私たちは皆、この神の前に立つ。

そこでは神を欺くことなど不可能。

裁きの御座の前では謎に包まれた世界の歴史を決定したいくつもの戦争の原因が偽りだったことが明らかになっています。

歴史の中で宗教者、神父、牧師はどういう存在としていかなる存在として歩んだか。そこには数多くの、社会にとって聖なる、いわばともし火を掲げた人々が存在したことは事実です。しかし同時に教会において恥ずべき行為や退廃は少ないとは言えなかった。教会は中世においてはとても聖職者とは言えない悪者を教会の要職を金銭で売り物にしたのです。現代の聖化、清めを掲げるグループの教会であっても毎年のように処分される伝道者は絶えない。

神は正確無比に罪を見過ごしはしない。妥協はない。

パウロは5:10
「わたしたちは皆キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」

神の最後の裁きです。「皆、キリストの裁きの座の前に」とあります。裁くものは御子としてのイエスキリストです。

使徒パウロはローマ8:34で
「だれが私たちを罪に定めることができましょう。キリストイエスは、死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の座に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださるのである。」

つまり一度は、ヒツジを右に、ヤギを左と分けるように、あなた方は失格者の左だと宣告された人々を右側に迎え入れられたのです。ですから使徒パウロは8:35,38,39
「高いところにいる者も、他のどんな被造物も私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも現在の者も、未来の者も、ちからあるものも、」
誰もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないのです。

そうであれば、なおさらに私たちは信仰に熱意を注ぎ込んで、神を愛する歩みに熱心であってよいはずです。

(2020年10月11日 礼拝メッセージ)

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