十字架にむかいて

マルコ福音書 10章 32-45節

「十字架にむかいて」というタイトルをつけさせていただきました。元々のタイトルは「向かって」にしようと思ってたんですけど、書いた字が読み取れなかったみたいで文語体風になってます。むしろこの方が良かったかなと思ってもいるのです。
私たちは今、受難節の教会歴の日々を歩んでいます。まさしく、イエス・キリストが十字架にむかいてゆく道のりにあるわけです。

クリスチャンの生き方というものは、教会には牧師がいるしカトリック教会では神父という言い方がされますし、信徒もいます。名称はともかくとして、突き詰めて何が大切かと言えばキリストに従って行く生活であります。「従う」といっても、どう従ってゆくのかが問題です。模範であるイエス・キリストのお考えや、何を心に願っていらっしゃるのかが分かっていないと従っていくことはできないのだろうと思うのです。
私たちの信仰についての考え方、願い、思いは、ある意味で移ろいやすいものかもしれない。信仰生活をどうすべきかは、一人一人が考えることですから、「それじゃあ、あなたはダメですよ」と、なかなか他人は言いづらいものがあると思います。ある時は非常に熱意のある信仰生活を歩んでいるかと思うと、案外そういう情熱というものは薄らいでいったりするものでもあるかもしれない。イエス・キリストはこの部分で何を思い、何をしようと考えられていたんだろうか。それに対して弟子達は何を考えていたんだろうかという思いが、この辺を読んでいるときには、ずいぶんするものです。

「一行がエルサレムへ上って行く途中にイエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちは驚き従う者たちは恐れた。」(32節)
この時に主イエスが何を恐れていたのかということは、弟子たちにはよく分かっていなかったのかなぁと思います。もちろん弟子達だって自らの仕事を放棄して、イエスの足跡を踏み、従っていこうと考えていた人々ですから、主イエスの思いが全然解っちゃいないわけではなかっただろうと思います。けれども、エルサレムで何が待っているのかということまでは、わかっていなかったのではないか。
エルサレムでは何が待っているのか。とんでもない話ですけれども、主イエスを十字架にかけようと手ぐすね引いて待ち望んでいる敵対勢力がいたということであります。主イエスはもちろんその事をよく知っていた。でも弟子たちにそういう意識は、この後の文章を読んでみると感じられないのであります。
主イエスにとって都合のいいことが待っているとは思っていなかっただろうと思います。粛然とした顔つき、態度、そうしたことに圧倒されていた。何か困難な出来事が起こるかもしれないと、分かっていたかもしれない。同時に、自分たちも危うくなるという考えは多分あっただろうと思います。全てを託して従った自分たちの、夢や願いや思いまで潰されてしまうのではない、という気持ちがそこにあったような気がする。

33節でイエス様は「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。」とイエス・キリストの苦しみについて語られました。しかもそれは遡ること700年も前に、預言者イザヤが予告した言葉でもあった。あたかもそれを目撃したかのように預言者イザヤは語ったのです。主イエスはこれからエルサレムで何が身の上に起こるかをはっきり自覚していました。
ですから取り得る手段が無いわけじゃない。イエス・キリストが死んでしまったら、イエス・キリストを通してなされなければいけないことが全部ダメになってしまうだろう。それなら、避けようとして手段を講じることは少しも悪いことではないかもしれない。それを手にとってイエスを避難する人はいなかったでしょう。むしろ死刑になるくらいだったら、それを避けてくれた方が主イエスを通して別の救いの道が起こるかもしれないと思うかもしれない。
しかし主イエスは毅然として、人々が願ってもいない十字架の道を進んで行かれた。進んでゆく主イエスの顔は決然としたものがあった。そうすることが自らの使命であり生涯の願いであるかのように前進して行った。主イエスはそれまで多くの教えを人々に与えた。また数々の奇跡や癒しを行った。けれどそれを持って人気を獲得しようとか、名声を得ようなどということは全くしませんでした。主イエスの働きは1点、十字架にぴったりと焦点が定められていました。主の生涯のすべては十字架に至るための準備だった。弟子たちに「私についていきたいと思うのは自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と、マタイ福音書16章の24節で言ってらっしゃいます。

マルコ福音書はまず、主イエスが今の今、まず弟子達を恐れさせるほどの緊張感を持って十字架にかかることを伝えた。弟子達はそのことを分かっていたんだろうか。この十字架の予告をした直後、「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出てイエスに言った。『先生、お願いすることを叶えていただきたいのですが。』
イエスが何をして欲しいのかと言われると2人は言った。『栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』
イエスは言われた。『あなた方は自分が何を願っているか分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受けるバプテスマを受けることができるか。』
彼らが『できます』と言った」と、描かれています。こういう類の話はこの10章のところだけではありません。
9章 33節。「一行はカファルナームに来た。家に着いてからイエスは弟子たちに途中で何を議論していたのかとお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中で誰が一番偉いかと議論し合っていたからである。イエスは座り12人を呼び寄せて言われた。『一番先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』
そして一人の子どもの手をとって彼らの真ん中に立たせて抱き上げて言われた。『わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は私ではなく、私を遣わしになった方を受け入れるのである。」

弟子達はイエスの後を歩むつもりはあったでしょう。しかし同時に、彼らの中では「弟子たちの中で誰が一番偉いのかを議論していた」ということが絶えず行われていた。結局は自分が最も偉い、お前より私の方が偉いのだぞと表明したい。そこに私たち人間の持つ救いがたい惨めさというものがあるのではないでしょうか。
神の救いの計画が語られ、主イエスが周囲を恐れさせるような大きな決断をしたことが、表情を見るだけでも表れているはずなのに、弟子たちが見ているものは自分たちの序列競争です。主イエスの願いと弟子たちの願いがあまりにも違う。人間の、あからさまで、むき出しで、何の意味も無い野心が顔を覗かせています。これが主イエスの最も近くにいた弟子たちの中での出来事でありました。

主イエスのメッセージは初めから“神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい”という内容でした。弟子たちは神の国が来ると聞くと、イエス様がおっしゃった出来事と違うイメージを膨らませていたかもしれません。
神の国が来るならイスラエルの国が復興するだろう。
ローマから独立できるかもしれない。
たちまち自分たちの願っているような世界が実現できる。
イエスは王になり、自分たちは重要人物の一人になって側に使えることができる。
主が十字架にかかることなどあってはならないこと。

そしてヤコブとヨハネの事を知った他の10人の弟子達は怒ります。2人だけで美味い汁を吸おうとする。ずるいではないか。自分たちも吸わせろということです。12人全員が主イエスの考えが分かってないのです。そこで主イエスは42節から45節のところを語られます。
「そこでイエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなた方も知っているように異邦人の間では支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかしあなた方の間ではそうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい。人の子は仕えられるためではなく使えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」
主イエスは、リーダーはどうあるべきかという一般論を語ったように思われるかもしれない。それほど権力への志向というものは人間には一般的なものなのかもしれません。宗教の世界もそこから抜け出していないという部分もあるかもしれません。

しかしここでは主イエス自身のことが語られていると思います。すべての人が救われるためにご自身が命を捨てられる。そして、弟子になるとは、師の足跡に従うことなのだと言われる。
二人の弟子が野心を伝えたとき「私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と尋ねられ、その二人は、いとも簡単に「できます」と答えています。「私が受ける洗礼」とは、パウロによれば、(ローマ書 6章 3節)「それでもあなたがたは知らないのか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死に預かる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」
洗礼とは、死をも超える新しい命に人を生かすものなのだと思います。イエス・キリストに従う生き方は、美味い汁にあずかる事とは無縁です。主イエスはどんなときにも十字架の救いを与え、私たちを本当に生かすために前を歩いてくださる。人間の世の中は、
仕えるより、仕えられることを喜びます。
愛することよりも、愛されることを求めます。
与えることよりも、与えられることを喜びます。
つまり自分本位の幸せを求めます。
しかしそれでは幸せはますます遠のくばかりだと思います。教育も大事です。しかし人間の生き方や価値観は、すべての人々のために自らを差し出したイエス・キリストの十字架に触れることでしか変わらない。教育は教える。しかし人間を変えることはできません。弟子達が本当に変えられるためにはイエス・キリストが十字架にその身を捧げなければならなかったということが、今日のこの部分で教えられることだと思います。

お祈り

神様、私たち人間は権力の座に近づくことを喜びますけれども、イエス・キリストはまさにその正反対の道を選び、語り、そして弟子たちの目の前にそれを現しました。私たちは主イエスの十字架の道を一歩一歩その御足に従って歩んでいくものでありますように。私たちの歩みをどうぞあなたが正してくださることをお願いをいたします。一人の人の野心がどれほど大きな惨禍(さんか)を生み出してしまうものか、最近の出来事で深々とそのことを教えられつつあります。
どうか人間が野心を捨て、あなたの前に十字架の道を歩み続けることができますように。私たち一人一人もどうぞあなたの前に前進していくことができるように、私たち一人ひとりを正してくださることはできますように。私たちの歩みを助けてくださることをお願いをいたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

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