神に結ばれて

マルコ福音書 3:31-35

兄弟、姉妹、母とは誰か

1月の後半からマルコによる福音書を今年の聖書日課は丁寧になぞっていきます。まだ当分、前に行ったり後ろに引いたりという聖書日課ですけれども、今日はマルコの3章が開かれています。マルコ福音書はイエスの生涯を最初に描いた福音書なのです。
思い出しますと、1章はペテロの家があったんじゃないかと言われたりするカファルナームで、汚れた霊に取りつかれた人を癒やして、多くの悪霊や病人を癒す、さらには重い皮膚病を患っている人を癒やすという、癒しの記事が描かれていました。
第2章はカファルナームのガリラヤ湖畔にある町。4人の人が中風の男の人をベッドごと屋根から吊り下ろすという出来事が書かれていたと思います。そして収税人のレビ(マタイ)がイエスの弟子になったという出来事。ユダヤ世界の反社会的存在として描かれている職業の人です。社会の汚れ仕事である収税人を引き受けていたレビを弟子にする。当時は画期的な1つの出来事だっただろうと思います。そういうことをなさった。
3章ですけれども、安息日に片手のなえた人を癒して大勢の人が集まってきた。大勢の人というのはユダヤエルサレム、ヨルダンの向こう側のシリアの方からも、おびただしい人々がイエスのもとに集まってくるというような状況。
こうしたプロセスを通って主イエスは伝導者としての働きの中に入っていくわけです。

この出来事が起こってきたときに家族はどんな気持ちでイエスを見つめただろうか。ヨセフが登場しませんからヨセフは亡くなっていたと考えられています。マリアは若くないでしょう。家庭を支えるために長男であるイエスに頼る気持ちが強くなる一方なはずです。長男のイエスに家計を支えてほしい大事な時に、時も時にと言っても良いぐらいにマリアの元から突然去っていってしまった。しかも、今申し上げましたとおりに大変な勢いで多くの人々を集め、新興宗教の教祖のように演説をし、癒しをし、社会的に有名な存在になっていく。親のマリアの目から見ると危なっかしい。
幼い頃から主イエスを知る人々も多かった。その主イエスが悪霊を追い出したり、人々を癒す姿を見て「彼が悪霊を追い出す力など持っているはずもないだろう。そんなことは自分がよくわかっているはずだ。あの子はおかしい。少し狂ってしまったのではないか。」と考えても不思議はないかも知れない。しかも、らくだの毛衣を着、イナゴを食べて生きているあの一風変わったヨハネから洗礼を受けて、荒野に篭って帰ってきてからは来る日も来る日も伝統的な習慣を破り、時には律法さえ無視して安息日に癒しをしたり、演説説教をする。マリアはとうとう意を決して4人ぐらいいた兄弟を引き連れてイエスのもとに来た。
3章の20節を見ると「身内の人はイエスが気が変になっていたと言われて、イエスを取り押さえに来た」とあります。この時にはマリアも加わって家族総出で本気になってイエスを連れ戻しに来た。しかし、いつものように大勢の人々が主イエスの周りにいたので入っていけない。あなたのお母さんと兄妹姉妹が来ている。ちょっと中断してほしいと言われた主イエスがおっしゃったのは「私の母、私の兄弟とは誰か。」 わざわざ主イエスの周りに座っている人々を見回して「私の兄弟、姉妹、母とは神のみこころを行う人々なのだ」と言われた。

我々信仰生活をしている人はこれに似た状況を経験したことがあるかもしれません。家族との間に諍(いさか)いが生まれるということがあるんだと思います。私が聖書学園に入学した時に父親から「お前との間はもう親でもないし、子でもないと思え」と言い渡されました。クリスチャンホームでもない限りキリスト教信仰を子供が持つことについて自分と親、あるいは自分と兄弟の間に信仰上の摩擦が起こるということは日本においては珍しいことではないような気がします。少なくとも私はずいぶん親との間で諍いになったことを思い出します。
主イエスはここで「神の御心を行う人こそ私の兄弟姉妹また母なのだ」と言われました。周りを見回して主イエスがまず言われたのは“神の御心を行う人”です。「神の御心を行ってない人は私の兄弟、私の姉妹、私の母ではない。」 そう読もうと思えば読めないことはないのですけれども、イエスの身の上のことを案じてやってきた肉親に「あなたは私の兄弟、姉妹、母ではない」と切り捨てるように言ったとは思えない。主イエスの母であったからこそ、後にアヴェ・マリアと崇められ、主イエスの十字架の死にも最後まで伴った一人となった。兄弟たちはエルサレム教会の中心になっていった。ですから見事な和解が、イエス様と家族との間に成りたった。それは大変な努力がいったと思います。単に家族だからという理由で、家族の親密さが深まるというわけではないように思います。

その逆もあります。家族間の諍いから争いが多くなっています。殺人事件の半分は家族の間に起こっていると言われたりします。もし神の御心をまったく持っていないのであれば兄弟姉妹にはなり得ない。家族だからといって親しげに関係を結ぶことにはならないのだと思います。主イエスの兄弟姉妹、母マリアでさえもこの時は、ほとんど敵対者であったからです。ですから私たちの教会生活で、まずここで神の御心を行っているかどうか、私たちは互いに神の御心を作り上げているかどうかということを問うてゆくことが大切なことだと思います。教会員の交わりは、親しさを求める方向に行きがちですけれども、教会において神の御心を行うものとして集っているということは、落としてはいけない点だと思います。

私は親との関係にあってずいぶん断絶を経験しました。つまりそれは私が至らなかったという何よりの証拠だと思います。劇的に献身するとか、神の前に歩むことを急ぎすぎた。そうしたことがあるのかもしれない。でもああしなければ私の受験しが全うできなかっただろうと思います。父は亡くなる前に「お前が牧師となってくれたことを喜んでいる。」 そう言ってくれました。父がキリスト者になることによって父の兄弟も熱心なクリスチャンになって、そして晩年は教会の礼拝の司会などずーっとやっておられたことを覚えています。私の両親はクリスチャンになって晩年の4年間でしたけれども、それがなければ喜びの無い生涯で終わってしまったのではないか。
戦争の時代に身を置いた両親ですから本当に大変な人生を歩んだはずです。母に関して言えば、食道がんになって人生の最期を迎えたのですけれども、私が数カ月の間、府中病院に泊まりに行って信仰の話をする、日常の話をして帰ってくるような日々を過ごす中で彼女はクリスチャンになりました。そうした中で彼女は本当に喜んでくれた。病室に入っていきますと輝くような笑顔で迎えられた。あんなに笑顔を浮かべることができる人だと思わないほど美しい笑顔で迎えてくれた。
そうです、食道がんの苦しみの中で微笑みを忘れない人になってくれた。それは驚くほどの変貌ぶりでした。本当に神の恵みでした。

私は出来の悪い子供でした。じゃあ子供たちに対してはどうだっただろうか。親が牧師であったことを迷惑に感じる部分も大いにあったかもしれない。親にも兄弟にも子供たちにも、果たしてどこまでいい人であれたかなぁ、不十分の愛しか与えることができなかったんじゃないかなぁというように思います。そうした私ですけれども子供たちは皆、洗礼を受けてくれました。私たちはどれほど真剣に神を神として愛しただろうか。隣人に愛を注いただろうか。主イエスはそのことを問うてるのではないでしょうか。
今からこんな話をするのは手遅れじゃないかと思わないこともないんですけれど、幸いにも私たちは、まだこうした日々を歩むことが許されている。短くとも小さくとも、この日が与えられています。愛は具体的です。愛は言葉で表されます。愛は時にバラの花であるかもしれない。一本の LINE のメッセージかもしれない。それが人の敵や憎悪を超えさせることにつながるかもしれない。

先ほどマルコ3章では敵対的であった母マリアは、主の十字架の最後まで伴ったと申し上げました(ヨハネ 19:26,27)。十字架についているイエスが弟子たちに、自分の母親の世話を依頼するところであります。マルコ福音書の3章とは、まるで正反対の姿がそこにあります。マルコ福音書では母親を前に「私の母とは誰か、私の兄弟とは誰か、神のみ心を行う人こそ私の母だ」と断言しました。ところがここでは十字架に釘付けされた苦しい息の中で弟子に向かって「これがあなたの母だ」と言います。母に向かっては「これがあなたの子だ」と言うのです。信仰によって創り変えられた信仰者、キリストの救いによって創り変えられた信仰者としてのマリアがここにいます。
私たちも悔い改めと信仰によって、神がご自分のものとしてくださった信仰の原点をしっかり見つめなければならないと思い
ます。そうでなければ、あまり気が合いそうもない人と赦しあっていくことは難しいと思います。神様はそうした人生を根本的に変えてくださる。そうしたお方でいらっしゃると思います。私たちはそういう時が与えられている。今日がそういう時であるかも知れない。私たちの慈しみを周囲の人々に分かち合える日が、こうして与えられていることを感謝するべきだと思います。

お祈り

神様。あなたは私たちに、あなたの豊かな恵みによって人を創り変える、そのような恵みを私たち自身の上に、また私たちの周囲の人々の上に起こしてくださっていらっしゃいます。そうしたことが現実に人々のうちに実現していくことができますことをありがとうございます。どうぞ、あなたの前に豊かな恵みを持って歩み続けることができますように助けを与えてください。あなたの恵みによって以前には想像もできないような恵みの出来事が私たちの人生に実っていくことができますことをありがとうございます。まるで正反対ではないか、まるで敵対者であったはずの人がそうでなくなっているということが実現することをありがとうございます。どうぞあなたの前にあなたの祝福を豊かに実らせていくことができますように。今私たちの心の中にある様々な人々の思い、顔が浮かびますけれども、しかしそうしてあなたが望んでくださいますことをありがとうございます。どうぞ私達の人生の上にあなたの慈しみを実らせてくださいますように。他者と分かち合うことができますように助けを与えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

(2022.02.20 礼拝メッセージ)

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