最初の弟子たち

ルカ福音書5章1-11節

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ガリラヤ湖の湖畔で、徹夜で漁をしつつも小魚一匹獲れなかったペテロ達のところに主イエスが突然おいでになって「ご自分についてくるように」と命じられました。主イエスはその生涯の伝道を始めようとされたときに、まず第一にされたことは、主イエスが弟子と定めた人々のところに出かけてゆき、「私についてきなさい。」と呼びかけることでした。
キリスト教信仰に入った経過を振り返るとき、多くの人々は躊躇をおぼえたり、迷ったりしたことを思い出すかもしれません。私は根が単純なものですから洗礼も嬉々として喜び、勇んで信仰生活の段階を踏んできたような気がします。とはいえ、結局われわれが信仰に入ったのは、われわれ自身の決心などではなく、キリストに“とらえられた”のです。言い方を変えればキリストに“魅了された”のです。

主の言葉がわたしに臨んだ。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。 

エレミヤ書 1章4-5節

後に使徒とされたパウロによれば

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソの信徒への手紙 1章4-5節

弟子とされた人々、シモン・ペトロも兄弟アンデレも、よもや自分がそれにふさわしい人間とは思っていなかっただろうと思います。まして彼らがやがて果たそうとする使命を知ったら、とてもそれにふさわしいとは思えず腰が引けたと思います。弟子の中には収税所に座っていたレビという名の収税人がいました。収税人は当時のユダヤ社会では嫌われていた人です。しかし主イエスは何の迷いもなく決然と弟子になるように命じ、レビも電流で撃たれたようにこの命令に従います。

ルカ福音書を見るとメインの登場人物たちは皆、漁師です。日本では大間のマグロ漁師が1匹の巨大マグロを吊り上げ、それがセリにかけられ3千万円以上の値が付いたという話しがありましたが、聖書では漁師はあまり重んじられている職業ではありませんでした。なぜペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが弟子とされたのか、彼らにどれほどの適性と才能があったのか、何も語られていません。私たちが主の弟子とされたことも同じです。神が力を発揮され、われわれを捕えてくださった。

ルカ福音書によるとシモン・ペトロをこの時見知ったわけではないようだ。4章38節以下を読むと主イエスはシモンの家にお入りになって、シモンの姑が高い熱であったのを癒やしています。ペトロは結婚をし、家庭も持っていた。ペトロは姑を含む大家族を養わねばならなかった。
この5章の出来事はペトロの姑の熱病を癒した直後と推測されます。漁師たちは徹夜で働いたのです。その晩は特にひどい不漁だった。小魚一匹すら網にかからない。網にかかったのはゴミだけだった。積み重なった寝不足と不漁。
いつしか主イエスが湖畔で説教を始めていた。奥の人々が集まっていたかもしれない。でもペトロはそれにも気づかず、収入のなかった空しさに打ちのめされています。主イエスはそこにあった2艘の漁船のうち1艘の船はペトロの船であることを知って、自分でその船に乗って網を洗っていたペトロに向かって、岸から離して群衆から距離をつくるように依頼した。ペトロは聞くつもりはなかったと私は思います。疲れ果てていたから横になって寝てしまっていたのではないかとも思いますが…。
話が済むと主イエスはペトロに「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と命じました。ベテランの漁師たちが魚の集まる夜の漁を徹夜でやったばかりなのに。ペトロは大声で怒鳴りたかったかもしれない。でも不思議なことにそうは言わなかった。ペトロは疲労困憊だった。もう一度網を投げ入れても、魚が取れる可能性はゼロ、いやゼロ以下でしかない。ゴミだらけの空っぽの網をもう一度ていねいに掃除せねばなるまい。そこでペトロは主イエスに言いました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)
99.999%、主イエスの言葉は違っているかもしれない。でも0.001%主イエスの言葉にかけてみよう。自分の判断、自分の経験、自分の疑いを封印して主イエスのお言葉によりすがって主イエスの言葉にペトロは従った。すると、他の船の助けを借りなければならないほどの魚が網にかかった。ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです。」(8節)と言いました。キリスト教会の第一の弟子として、使徒の中心として、ペトロより有能な人物はいくらでもいたかもしれない。でも神は、罪びとであり無能なものでしかないペトロを選びました。ペトロは使徒となった後でさえ、何度も失敗を犯します。その度にパウロに叱責されたり、神に正されるのです。でも彼は頑なにならなかった。わたしたちの歩みも、自分が頑なになるためでなく、逆に自分が心砕かれて、打ち砕かれて、主イエスが与えてくださる神の恵みを受け取って、喜んで生きるのです。それは周囲を明るく、暖かく照らし出す光となるのです。
神が我々を選ばれたのは、我々に何かよりどころがあったというのでなく、我々には何かましなところがあるというのでもないのです。むしろ我々がダメな人間であるにもかかわらず、神はこのわたしたちを選んでくださるのです。

今日の聖書の言葉は11節で終わります。私たちの信仰生活は欧米的な生活スタイルがどことなくベースにあって、自分の生活スタイルが許す限りにおいての礼拝生活が前提になっています。それは主イエスが言われる言葉とは少し距離というか、ずれがあります。イエスは「自分の十字架を負って私に従ってきなさい。」と言われます。ペトロたち4人の漁師には「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節b)と言われます。社会的には少しも歓迎されない人々である漁師や収税人が、真っ先に主イエスから呼びかけられた。彼らは船を引き上げ、すべてを捨ててイエスに従ったのです。
とは言え主イエスは厳しく弟子たちを叩き直して、厳しい訓練を押し付けたとも思えません。毎日、共に生活し、飲食をともにしつつ教えを与えた。弟子たちはついて行ったに過ぎない。やがて主は十字架にかかられた。その十字架によって自分たちは救われた。だから自分は、自分の十字架を負ってこの方についてゆく。私たちもそうしてキリストについてゆく。
私たちの信仰は弱いのです。でも時にはあらゆる生活を捨ててでもキリストに寄りかかってゆく。キリストがそうせよと語りかけてくださるから。そこにこそキリストの祝福があり、幸せがあります。私たちもこの日々、キリストに似るようにという生活を歩んでいきたいと願うのであります。

2023年1月15日 礼拝メッセージより

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