種まきのたとえ(マルコ福音書)
マルコ福音書 4章1-9節
道端、石地、茨、良い地の種
今日、聖書を開いておかしいなと思った人がいるんじゃないかと思うんですよ。先週の聖句とつながっているのです。ですから重なる部分があったりしますので同じじゃないかというように感ずる方もおられるかもしれません。種まきの例え話がテキストになっているんです。マタイ、マルコ、ルカ福音書は共観(キョウカン)福音書と言います。似てるんです。どうして似ているかと言うと、最初にマルコによる福音書が書かれた。そして形式上の枠が決められたものですから、マタイが自分の資料に加えて、マルコ福音書と合体するような形でマタイ福音書を作った。ルカは同様な手法で、ルカの独自資料とマルコ福音書を合体してルカ福音書を作ったということらしいのです。ただしマタイ、マルコ、ルカの福音書に書いてあるいくつものたとえ話の中で、ほとんど同じ内容だというのは、たった二つなんです。ですからイエス様、弟子たちとしては、これは大切なことだから福音書の中にも採用しようということで載せられたということ。それはマルコの一つの業績だと思います。
一体コレ何語ってるんだろう。何が大切なんだろうかということなんですけども、まず3節に「よく聞きなさい。種をまく人が種まきに出ていった」というように書かれています。「よく聞きなさい」と書いてあります。9節を見てください。「聞く耳のある者は聞きなさいと言われた」と言うんです。ずいぶん念の入った言い方です。「何がそんなに重要なんだろう? 何がそんなに重要なの?」と私は思いました。おそらく弟子達も怪訝な思いがしてるんじゃないかと思うのです。何度読んでも重大なことが書いてあるような様子がないんです(読み落としをしているのかもしれませんけれども)。「よく聞きなさい。」「聞く耳のある者は聞きなさい」なんて言うと、その大切さが分かってないと恥をかいたような気持ちになる。
10節から読んでみます。「イエスが一人になられた時、12人とイエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。『あなた方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示されている。』」とイエス様が言ってるんです。弟子たちはイエス様が何を仰りたいのか本当によくわからない。けれども、わからないということが分かった。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々にはたとえで示される」
弟子たちに神の国の秘密を啓示し打ち明けるためなのだと。神の国の秘密とはイエスにおいてこの世にもたらされ現実となっている神の支配の秘密。
今もこういう時代です。ロシアが戦争を始めるかもしれないとか、コロナがいつまでたっても治らないかとか、私たちには理解の超えることが次々と起こってくる。こんな時代の中で神の国なんてあるのか。神の支配なんかあるのか。むしろサタニックな勢いばかり目立つではないかという思いがしてませんか?
そういう中で、神の国の支配はあるんだ、神の支配というのは現実にあるのだということをイエス様は仰りたい。そういうことを私たちに見てほしい。何もサタニックなことばっかりで、悪魔の支配のようなことばっかりで、来る日も来る日もコロナのこと。救いがないじゃないかというような感じがするんですけれども・・・。いやそうじゃないんだよ、神の国の秘密というのはあるんだ。神の国の支配というのはあるのだということをイエス様は教えたい。
キリスト教信仰の話をいろんな人とします。一人でも多くの人が信じてほしいという話をします。
結局、神を信じるか否かという点に立たざるを得ない。皆さんはどうですか? もちろん信じているからこうして礼拝にも来るし、リモートで礼拝の様子ををご覧になっていてくださる。でも、すべての人がそうした信仰に立つとは限らない。分かる人は分かるけれども、分かってくれない人は、いよいよ分からない。私たちはどっちかに迫られる。
人の目から隠されて覆われていますけれども、「今やたとえによって語られて聖霊によって信じる弟子たちに啓示され、神の啓示として打ち明けられる」のです。神の国が私たちの目の見えないところで眼前として存在している。目で見てよくわからないような部分がありますけれども、信仰によってでしか知ることのできない秘密です。
種まきの例えというのは単純です。それぞれの地に応じて、芽を出しそこなったり、枯れてしまったり、成長しそこなっていく。今日はここにアマリリスが置いてありますけど、綺麗に咲いてます。不思議だと思います。里芋のような球根から立派な花が咲くわけです。種だってそうです。良き地に落ちた種だけが100倍の実を結ぶ。そうじゃない種は実らない。花が咲かない。その喩え話の中心は「聞く」ということである。先週の話の部分にあったかと思います。
私、ひとりの人を思い出しました。こういうところで言うのもどうかと思いますけど。今東光(こんとうこう)という作家の人がいました。天台宗の大僧正まで務められた方で、最後には国会議員までやったということですけども、あまり感心しない小説が大半だと思ます。ですからこの人の小説を読んだことは1度もありません。でも一度 NHK ラジオの放送で心に残る講演があったんです。いまでもその音声は思い出します。この人は無頼な青年時代を送った人です。名門の出身であるにも関らず学校には行きそびれてしまって、多分まともに学校に行ってたのは小学校時代だけぐらいだと思います。中学校はどこかのミッションスクールに入ったのですが不祥事で学校を辞めさせられたようなことがあったようです。荒めきった生活を中学生がやってたんです。
いつものように電気屋の前を歩いて商品を見ていた時に突然、ベートーヴェンの5番のシンフォニーが鳴りだしてきたそうです。あまりの感動に何もかも一新されるような思いがしたって言うんです。この話を聞いたのは私がクリスチャンになる前です。この人の感動が伝わってきた。救いようもない、どうしようもない青年に、運命交響曲が大きなきっかけを与えたという話。彼は涙ながらにその放送をしてた。
確かに一つの音楽の演奏が人間の生涯をひっくり返すということは時よりある話です。音楽を聴くといっても私などは何かしながら、“ながら”に聞くだけです。でもその音楽を作った、ピアノなりオーケストラの指揮者なり、そういう人たちは命懸けで演奏すると思うんです。そういうものは伝わらざるを得ないという部分があります。神の言葉はそれに似て耳をそばだてて聞こうとする気持ちを持つことが求められている。そしてそれを聞いた人に人生がひっくり返るような感動を与えるのです。
種まきの例えは、3種類の聞き方(生き方)が書かれます。
15節に「道端のもの」とあります。「御言葉を聞くけれども信じて救われないように、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」
神の国の言葉を聞き取ったはずなのですけれども、ヒョイと、その御言葉を奪われてしまう。実を結ぶどころか根を生やすいとまもない間にそれはなくなってしまう。
16節「石だらけのところに蒔かれる人とは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても試練にあうと身を引いてしまう人たちのこと」だとイエス様はおっしゃいます。
御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずいてしまう人。
3番目の人は、いばらの中に落ちた種。
御言葉を聞くけれども、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれて実が熟するに至らない。御言葉を聞き取ったけれども、その御言葉を養う心を自分自身が保ち続けることができずに、思い煩いに押し流されていってしまう。
道端と言われる心も、石だらけの心も、茨が生い茂る心もすべて一人の人の心です。それは私たち自身の心でもある。人間は心のあり方に従って耳を働かせ続けます。耳で聞くのではなくて心で聞きます。ですから都合の良くない言葉は聞かない。
今東光さんは今春聴というのが正式な芳名だと書いてありました。春を聴くと書きます。しばらく前に亡くなられた寂聴さんという人がいました。彼女は瀬戸内寂聴という名前です。お二人ともキリスト教徒との接点がきっとあちこちにあった方だと思います。
連想をさらに発展させると実は種は同じものです。道端、石地、茨、そして良い地。これらは人が置かれた環境ともとられます。日のあたるところに置かれた人はいたでしょうけれどごく僅かです。踏み固められた道端という環境、石地の環境に放置されている人々もいた。やむを得ない病気で苦しむ人もいた。そうした人々を宗教は天罰を理由に差別した部分があります。確かに置かれた環境によって目に見える人生の実りは違う。でも私の人生として与えられた。つまり蒔かれたた種はみんな同じ種です。
人はさまざまな問題性や不条理を抱えて生きています。でも私の根本は神が与えてくださったもの。ですからここで芽を出し花を咲かせよう。人々はそう聞き、主イエスから励まされたんだと思います。私たちもこうした中で、自分の環境が良いとか悪いとか、都合が良いとか悪いとか思いますけれども、神様の種をいただいている、可能性をいただいていることをしっかりと受け止めて、神の前に歩んでいきたいと、そう願うのであります。
お祈り
神様。あなたの前に私たちが一歩一歩この人生の歩みを続けていくことです。私たちの人生が様々な条件や状況は違うものですけれども、根本的な力と可能性はあなたから私たち自身の人生に蒔かれています。途方もない大きな力であります。途方もない可能性であります。そうした中にあなたに覚えられあなたの前に一歩一歩を歩んでいることです。どうぞ自分自身を見つめ、このたとえ話の例えを他人の話だとせずに、私自身のこの心に、あなたがそのような可能性を蒔いてくださっていらしてるということを覚えることができますように助けを与えてください。困難の中にある人々にあなたの助けがありますように。あなたの祝福が届きますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りを致します。アーメン。