イエスの受洗

マルコ福音書 1:9-11

新年を慌ただしく迎えたところになります。今日はマルコによる福音書の冒頭のところですが、一番最初のところから読んだ方がよろしいかと思いますので、読ませていただきます。

神の子、イエスキリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よわたしはあなたより先に使者を遣わしあなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て罪を告白しヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に皮の帯を締め イナゴと野蜜を食べていた。
彼はこう述べ伝えた。「私より優れた方が後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
私は水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊で洗礼をバプテスマをお授けになる。」

そうして主イエスの洗礼の様子が9節から11節まで述べられています。

すると「あなたはわたしの愛する子。私の心にかなうもの」という声が天から聞こえてきた。(11節)

私たちの今年の聖書はヨハネのバプテスマからスタートするという形になっています。伝統的に語られたとおりの洗礼者ヨハネの姿です。「ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に皮の帯を締めイナゴと野蜜を食べていた」(6節)というのです。改めて、なんという格好だろうと思います。確かにこれは禁欲に生きる人の生活だろう。これ以上の節制はないというような節制の日々だったと思います。でも変な格好ですね。ラクダの下着っていうのは聞いたことありますけれども、ラクダの毛衣を革のベルトで締めて、食べるものはイナゴと野蜜。イナゴを召し上がったことありますか? 僕も食べさせてもらった事はありますけれども、美味しく味付をして、形さえ見なければ食べられるもんだと思います。だけど、常食としていると言う生活はあるんでしょうか? そんなんで人間の体は健康を保持できるんだろうか? どなたかに答えてほしいと思うくらいですけれども・・・。
私は思いました。この人何キロぐらいまでの体重が与えられんだろう。本当にそれだけだったんだろうかと。

ともかく、人々はそうした外見だけで圧倒され、魅了されたと思います。ヨルダン川の洗礼を受け入れるために列をなした。5節を見ると「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」と書いてあります。「ヨハネのもとに来て罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」と言います。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、洗礼を受けた。」
本当は洗礼を受けなくてもいい神の民ですが、ヨハネは「それではダメだ。本当にあなたがたは信仰があるのか」と改めて問うた。人々は自分自身の罪深さを自覚させられた。ヨハネの模範に生きる者だけが救われるというメッセージがあったのでしょう。人々はその外見だけでヨハネに惹かれるところがあった。
どういう人が惹かれたんだろうか。一人、特例的な人がヨハネに惹かれていた。ユダヤの王のヘロデアンチパスという人です。ローマに従ってはいますけれども、一応、王様です。「なぜならヘロデがヨハネは正しい聖なる人であることを知って彼を恐れ保護し、またその教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた。」(6章 20節)
ヘロデアンティパスという人は道徳的に非常に問題があった人です。兄弟の妻が大変な美人で、彼女が欲しくなって無理やり奪い取ってしまった。そういうことが非常に問題だろうということで、ヨハネは常々批判してたわけです。

「実はヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ牢につないでいた。ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは律法では許されていない」とヘロデに言ったからである。そこでヘロディアはヨハネを恨み彼を殺そうと思っていたができないでいた。」(マルコ福音書 6:17-19)

その理由は、ヘロデがヨハネを心から尊敬していた(恐れていた)からです。刺客が襲うと困ると思ったのか、マケラッシュという砦の厳重な独房に彼を閉じ込めて保護した。閉じ込めていた理由は、バプテスマのヨハネの教えが聞きたかったから。彼はバプテスマのヨハネを独房にぶちこんでいた。「その教えを聞いて非常に当惑しながらもなお喜んで耳を傾けていた」ということだった。そこまで心を許していたということです。
マルコによる福音書の冒頭を見ますと「神の子イエスキリストの福音のはじめ」と書いてあります。福音は良き知らせだという説明を聞きます。分かったような分からないような説明ですが、ともかく良き知らせです。それを受け止めればいい、受け入れればいいわけであって、すべての悪事を精算してからでなければ、この福音を聞いてはならないというわけではない。ここの一点においてはヘロデの心にも、一片の良心が残っていた。別れ道に彼は立っていたと思います。そこで洗礼を受けることも可なのです。そういう人は洗礼を受けてはダメだということではなく、志さえ立てれば、福音を聞いて洗礼を受けるだけで、人生は変わるのです。そういうものなのです。ヘロデは大切な二者択一を間違えた。もう少し時間があればよかったのかもしれない。しかしヘロデは、ヘロディアの策略の中でヨハネの首を切る、と言う出来事が起こったわけです。

「預言者イザヤの書にこう書いてある」というように旧約聖書が引用されているのです。「見よわたしはあなたより先に使者を遣わしあなたの道を準備させよう」(1章2節)
元々の出典は出エジプト記の23章20節です。イスラエル民族がエジプトを奇跡のように脱出できた。でも彼らは荒野にさまようだけだった。何もないところに出かけていった。目的の地まで達せればもう少しましな場所だったかもしれませんけど、シナイの荒野であります。シナイの砂漠であります。水も全くない荒れ野。終点は約束の地。彼らには乳と蜜の流れる場所と伝えられた。でもそれは遥か彼方。時間も遥か彼方にあるところです。そこに神の声が聞こえてきた。「私は御使いを送ってあなたがたを約束の地に導く。」
神の民はその導きに従えば約束の地に到達できるのです。神様が与えてくださったのは可能性です。その可能性を信じるのかどうするのか。2節の後半には「あなたの道を準備させよう」と書いてあり、出典は旧約聖書の一番終わりのマラキ書3章1節です。「見よわたしは使者を送る。彼は我が前に道を備える。」
神様がその姿を現すその前に、道を作る使者(使い)を送るというのです。
3節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整えその道筋をまっすぐにせよ。」
イザヤ書40章3節の有名な言葉です。メサイヤで歌われる大変有名なフレーズです。このマルコ福音書の冒頭の数節の中に旧約聖書のエッセンスが凝縮されています。そしてイザヤ書の40章は第2イザヤといわれる部分の最初の言葉です。

これはイスラエルの歴史の中で最も困難だったバビロニア捕囚の時代。それこそ荒野をさまようよりも辛い時代だったかもしれない。荒れ野とはバビロニア捕囚のことです。バビロニアに奴隷のように引かれていった。そしてその地で隷属的な扱いを受けた。故郷イスラエルとバビロニアは、まぁまぁの距離です。砂漠ですけれど、けして歩いて行けないところではない。隔てるものは確かに砂漠があります。でも問題は砂漠とか距離ではない。帰ろうと思っても帰ることを許さない何か。つまり政治的な歴史的な距離と言っていいと思います。それが解決しない限りは政治の力で決して帰れない。
現在、北朝鮮に拉致されている人々が留め置かれている。帰国を許さない政治的な距離。どうして解決しようとしないんだ。日本政府が全力を尽くして実現しようと思えば決して帰れないことではないはずです。しかしお互いに突っ張り合いがあってもう一歩の妥協、もう一歩、足を踏み入れることができていない。その狭間で、拉致された人々は帰国ができない。まさに政治的な距離。何十年経っても見いだせない距離であります。
神様は、その荒れ野に道をつけ、イスラエルに帰る道を備えようとされるのです。自由解放の日が到来するという希望の歌が、ここから鳴り響いている。そうい歌を聞きたいものだと思います。一人の女子中学生が拉致されて何十年経っても帰国が許されないなんていうことがあってはならない。しかしそういうことは国家と国家の間のことですけれどもしばしは起こること。決して日本だけが例外的なことではないと思います。神様はそこに道をつけてくださるのだということです。こうして出エジプト記、イザヤ書、マラキ書が引用され旧約聖書が一貫して語ってきた希望と救いの言葉が、今、成就する。どう実現するのか。その身を神様が現される。神が私たちのところに来られるのだ。洗礼者ヨハネは、そのさきがけ(for ランナー)だというのです。ヨハネが現れたのはヨルダン川の河畔でしたけれども、そこは荒野だった。

普通の人々が日常の歩みの中で怒ったり、憎しみに浮いたり沈んだり、様々な罪を犯すということが日常的にあることです。新しい年を迎えた。夫婦喧嘩だけはしたくないものだと思って、新しい年を過ごしている人もいるんじゃないかと思います。
でもそうした日常的な争い(家族のしがらみとか緊張)の中にある人々もいるでしょう。エフェソ書4章26節にこうあります。

新しい生き方
だから偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに体の一部なのです。怒ることがあっても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔に隙を与えてはなりません。

「怒る」という言葉がありますけれども、怒ることは罪ではない。ただ、日が暮れるまで怒ったままでいてはいけない。「日が暮れる」とは「怒りを翌日に持ち越してはならない」ということです(ユダヤは日が暮れると翌日という受け止め方をします)。それは大事なことだろうと思います。いい言葉です。それが新しい生き方だとパウロは言います。日暮れとともに新しい一日が来る。だから怒りを翌日に繰越してはならない。怒りを翌日に持ち越すとは罪につながるのだというのです。
きっとパウロもよく怒った人じゃないかと思います。怒りのままに筆がすべているようなところもあります。人間にはそうした面があり、日常的に小さな怒りを覚えることが頻繁にある。

そういう世界に神様は主イエスを送られた。みどり子のイエスとしてベツレヘムに送ってくださいました。やがて少年のイエスとしてナザレに送ってくださいました。主イエスは、私たちが味わう喜びや楽しみ、苦しみや悲しみ、それら一切の事を自分の事として経験された。その上、罪の許しを得る悔い改めの洗礼すらお受けになった。ご自身はそんな必要はないはずです。罪を犯した方ではないのだから。でもあたかも犯した者のように罪の許しを得る悔い改めの洗礼もお受けになった。
神様はそうして私たちに働きかけてくださる。泥水の中に足を突っ込むようなことを平気でしてくださる。私たちの世界の真っ只中に飛び込んで来られた。神様は歩み寄ってくださる。寄り添ってくださる。神の限りを尽くして成そうとされたのは、私たちを愛そうとしてくださったからです。
主イエスキリストがさらに足を一歩進めて洗礼を受けてくださった。天から声が聞こえてきました。それは「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」という言葉でした。神様は「あなたは私の愛する子」として人の痛みや苦しみ。悲しみのすべてを引き受けて下さる御子を、私たちの側に送ってくださった。主イエスは私たちの側に送られたのです。その方は十字架の死までを受け入れる愛をもって、私たちを受け入れてくださる方だった。主イエスを「わたしの愛する子」と呼びかけるように、私たち一人ひとりに向かって「わたしの愛する子」と呼んでくださるということではないでしょうか。

祈り

神様。あなたの思いに添いきれないで「あなたの前に出ることさえ恥ずかしい」。そんな状態になるような私たちを、あなたは「私の愛する子」とイエスに対して語られる同じ言葉を持って受け止めて下さいますから、ありがとうございます。新しい年が与えられました。新しい年を越えたいと思っている人の中にも力尽きてしまった人々が昨年はおられることでしょう。私たちがあなたの前にこうして生ける特権を与えられていることを、本当に、かけがえがなく嬉しいことだと思います。神様、どうぞあなたの前に良き一年を過ごすことができるように、私たちの上に臨んでください。私たちが周囲の人々、身近な人々にあなたの愛を表していく者でありますように、私たちの内に臨んでください。一切を御手に委ねます。私たちに、あなたの憐れみを与えてくださいますように。イエスキリストの御名前によってお祈りします。アーメン。

(2022年1月9日 礼拝メッセージ)

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