十字架を負う

ルカ福音書9章18-27節

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レントといわれるイエス・キリストの受難を覚える教会の季節を、今、私たちは歩んでいます。今読んで頂いた聖書の出来事はマタイ、マルコ、ルカ福音書に取り上げられています。どの福音書も主イエスは弟子たちの前ではっきりと自らが十字架にかかられることを語られます。けれどマタイ福音書・マルコ福音書とルカ福音書は少し雰囲気が違うのです。マタイ・マルコ福音書においてイエスは弟子たちを叱って、ペトロに対して<サタン引き下がれ。あなたは私の邪魔をするもの。>と激しい言葉を投げつけます(マタイ16:23)(マルコ8:33)。主イエスの迫力を感じます。いよいよ主イエスは十字架への道を歩むことを弟子たちに語ります。弟子たちは彼らの指導者である主イエスが救い主であるという一応の理解はしていました。やがてユダヤのそれは当時の社会状況を反映した政治的な意味合いをもつものであり、福音によって人間を根本から問い直すイエス・キリストの目指すものとは異質なものでした。ですから弟子達のリーダーであるペトロを、その時主イエスは感情を高ぶらせて<サタン>と呼んだと、マタイもマルコも伝えます。

ユダヤは主イエスが十字架にかけられたあと30年ほどでローマに戦争を挑みます。ローマ帝国は無抵抗で従順な民族には寛容な支配で応じますが、反抗する民族には徹底的に残忍だといわれます。ユダヤは紀元前60年ころからローマの属領になり続けていましたから、この100年ほどの間ユダヤ人はそのことはよく知っていました。にもかかわらず紀元66年から正面切ってユダヤ人はローマに全面戦争を仕掛けたのです。当時ローマにとってユダヤなど一蹴できる相手と思っていたはずです。なんとこの戦いは74年まで続いた。しかも当初はユダヤが優勢だった。その結果は惨憺たるものでした。ユダヤはその後2000年、流浪の民となったのです。しかもその後も115年、130年と武装蜂起をしているのです。それほど政治的自由をユダヤ人は求めていたし、多くのユダヤの人々はそれをイエスに果たしてほしかった。しかし国家として自立すること、経済的に自立することは確かに大切ですが、主イエスはより根本的な一人の人間としての在り方を問うた。

ルカ福音書のこの出来事の描写は、マタイ・マルコと違って、弟子たちの無理解に血相を変えて怒る主イエスの姿を書いていません。だからでしょうか、かえって「わたしについてきたい者は自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」というイエスの言葉が浮かび上がってくるような気がします。

宮沢賢治の<アメニモマケズ>。宮沢賢治は遺書とともに、この詩を書いたといわれます。一般には発表せずに死後に見つけられた詩であったといわれます。
<あらゆることを自分を勘定に入れずに>
<よく見 聞きし 分かり そして忘れず>
<そういうものに 私はなりたい >
これはある種、自分を捨てること、つまり自己否定を語ったことですし、<そういうものに自分はなりたい。>と、そうでない自分を見出した人の歌だと思います。宮沢賢治が死の床について、そうした自分になることを願っていたのでしょう。
毎年のクリスマス聖夜礼拝にご夫婦でおいでになる演出/脚本家の方が、宮沢賢治の生涯を描いた演劇を発表なさいました。そのストーリーの中で、宮沢賢治のこの詩にはモデルがいたと述べられたのです。
その人、齋藤宋次郎(さいとうそうじろう)といいます。1900年、彼は信仰告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けることになります。キリスト者への迫害が始まったのはこの時からでした。親から勘当され、今後は生家に一歩たりとも入ることを禁じられました。町を歩いているときなどは何度も石が飛んできました。 それでも、彼は旗印を高く掲げ、信仰を貫き通しました。しかし、いわれのない中傷が相次ぎ、やがて小学校を辞めることになります。そして、この迫害は彼だけに止まらず、家族にまで及んでいきました。長女の愛子ちゃんは、天皇の誕生日、国粋主義思想が高まる中で友達から腹を蹴られ、腹膜炎を起こしてわずか9歳という若さで天国に帰って行きました。賛美に送られ、平安のうちに主のみもとに凱旋していきました。
宋次郎さんは一家を養うために1905年、新聞配達業を始めることにしました。 朝3時に起き、汽車が着くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという重労働の中で肺結核を患い、喀血を繰り返しました。夜は9時まで働き続ける。その後は主との交わりの時間。不思議なことに、このような激しい生活が20年もの間続きましたが体は支えられたのでした。朝の仕事が終わる頃、雪が積もると小学校への通路を雪かきして道をつけ、小さい子供をみると抱えて校門まで走る。雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、人のために働き続けました。新聞配達の帰りには病人を見舞い、励まし、慰めました。
1926年。住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日がやって来ました。花巻を離れる日、だれも見送りに来ないと思って駅に着くと、そこには町長をはじめ町の有力者の人々、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般の人たち、物乞いする人たちで、身動きできないほど多くの人々が駅のプラットホームに来てくれたそうです。この人々の中に宮沢賢治がいました。宋次郎さんが東京に着いて最初にもらった手紙は彼からのものでした。宮沢賢治が齋藤さんをモデルに有名な詩を作ったのは、それから5年後のことでした。

私たちが、自ら自分を捨てるということは、本当は不可能なことです。できればそう生きてみたいと願いはしますが、できていない。主イエスは十字架を背負いなさい、と弟子達に言われました。弟子にとって十字架を負うとはどういうことだったのでしょう。ペトロの心の中では主イエスの弁護に乗り出そうという思いが心の片隅にはあったかもしれない。けれど女中の一人に、「あなたは囚人の仲間ではないか」と問い詰められ、出てきた言葉は「イエスと言う人物など知らない」。

よもやそんな言葉が口から飛び出すとは思っていなかった・・・・かもしれない。もうすでに若くはなかったペトロ。彼が人生の土台にしようと、生涯を賭けたはずの信仰の問題で、弟子達の中で中心的な存在であった彼が敗れたときでした。しかし彼は許された。それがどうにも言い換えのできない完璧な裏切りで、彼が中心的であったがゆえに、そういう人であってさえ許される「キリストの許しの計りな」さを証しする結果となった。だからその後、事あるごとにペトロはその事件を語りました。自分の生涯の忘れられない汚点を語り続けた。それは、死か妥協かという狭間の中におかれるようになっていった初代教会の人々にとって、大きな励ましとなっていった。

でも、プライベートなことも含めて何事でも公式に明らかにすればよいというものでもないかもしれない。主イエスは「日々、十字架を背負いなさい」と言われました。人には話せないこともあるし、そうすべきでないこともあります。森有正は「誰にも話せない、誰にも相談できない、そうした問題に直面して、そこで人は神に会うことができる」と書きました。
人生には我々に都合の良いことも、都合の良くないこともありえます。納得のいくこともありますが、納得のいかないことも多くおこります。「自分には都合の良いことしか起こらない」「自分の納得できることしか起こらない」という前提で歩いていると、人生は納得のできないことばかり起こるでしょう。人生には心の痛むことが多くあります。不幸、悩み、苦痛の種も多くあります。しかも、その理由もわからないということが多くあります。

旧約聖書にヨブ記というところがあります。神に祝福されているヨブについて、サタンが登場して言います。ヨブは神に祝福があるから信心深いのです。神の祝福がなくなったら、信仰はなくなってしまうのです。ヨブだって同じだ。理由無く神を信じることなどしないはずとサタンは神に訴えます。そしてヨブは試されます。財産が失われ、家族が奪われ、ついには原因不明の病気に見舞われます(ヨブ13:15,16)
「納得できないうちは信じない」「納得できたら神を信じよう」。そういう人は少なくないだろうと思います。しかしヨブが言うのは違います。「納得できないことを、納得できないまま背負って、ただ神に従おう」ということです。そうして生きるところに、本当の救いが開かれてくるのです。

十字架は本来主イエスが担うべきものではなかった。その私たちの十字架を主イエスが負ってくださった。世の中には様々な重荷と十字架があります。私たちがキリストの体であるなら、「日々自分の十字架を背負いなさい」とは、他者の苦しみに何らかの形で関わることではないでしょうか。
私たちは欠け多く、不十分です。せめて新たな心をもって、信仰を新しくします。だからこそ、自分がキリスト者なのか、そうでないのかをいっそう自分に問いながら、毎日新しくキリスト者であることを始め、祈り、こころざし、キリスト者として語り、歩んでゆきましょう。

2023年3月5日 礼拝メッセージより

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