新しく生まれるために

ヨハネ 3:1-15

ここから始まる部分はイエスとニコデモとの対話です。ニコデモはヨハネ福音書だけに登場する人物ですが、この人は主イエスの重大な出来事の中で3度登場するのです。最初は今日のところ、二回目は7章50-52、権力者たちがイエスを捕らえようとしたときに自ら名乗り出て逮捕に反対します。そして最後はキリストの十字架につけられた後、アリマタヤのヨセフとともにキリストのみ体を十字架から降ろし埋葬する場にニコデモも現れます。

ニコデモはファリサイ派に属するユダヤ人の議員とあります。サンヘドリンというユダヤ議会。71人の議員で構成され、宗教、政治、司法まで取り仕切っていた。社会的な位置としてはユダヤの指導的なグループにあった人です。ファリサイ派を英語にすると separated.
自分達は一般大衆からは分離したもの、彼らは、民衆がいい加減な歩みをしても、自分達は神に選ばれた誠実な生活をしよう。ファリサイ派の人々は清貧、清く貧しく生きる人も多かったといわれます。

ニコデモはある夜、主イエスのもとにきました。<夜>が強調されます。

これは主イエスとニコデモとの対話です。ところがどうも2節から3節への文章の流れは少し奇妙です。つまり2節は主イエスに対する呼びかけの言葉です。質問ではないのです。

ところが3節では「イエスは答えて言われた」と述べられます。たぶんニコデモは何事かを尋ねたのです。ところがここでは「問い」が省かれています。ニコデモは何を問うたのでしょうか。

ここでニコデモは主イエスを「ラビ」と呼んでいます。律法の教師に対する敬称です。ニコデモは主イエスを自らの師として仰いでいた。

ここに至るまで、ニコデモは主イエスにきっと注目していた。そして神殿において主イエスが語られたこと、そこになさった一つ一つの出来事を目にして、これはすぐれた教師だと認めていた。ニコデモは主イエスを「神から来られた教師」「神が共におられる」と呼んでいます。

これは宗教家への最大の賛辞。ほめ言葉でしょう。しかし主イエスはそれには全く反応しません。そして「はっきり言っておく」といい始めます。ギリシャ語聖書では「アーメン。アーメン」。アーメンとはヘブライ語です。真実だ、たしかだという意味です。この訳<はっきり言っておく>は、日本語でも優しい言葉ではありません。人をほめるときに使う言葉ではありません。叱ったり、批判するときに使う言葉です。ニコデモに対しても批判のトーンが響きますし、このあとに語られる言葉もたしかにニコデモへの批判が畳み込まれます。

「はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。」
主イエスは神の国と言うのです。

神の国は、たしかに当時の人々にとって問題でした。イスラエルは神の国の、神の民のはずでした。人々は、どれほど神の国が実現することを望んできたでしょう。ニコデモも、ファリサイの人々も、サドカイや祭司の人々も、本来、良心的に、誠実にこのユダヤが、神の国らしくなることを願いました。それが彼らの使命であり仕事でした。ファリサイの人々は一般大衆とは分離しても、神の前に誠実に生きようとしていました。しかし当時ユダヤ国家は、いちおうヘロデという王がいましたが、堕落した、しかもローマに妥協することばかり考え、人民への思いはかけらも持ってはいなかった。ローマの強大な権力の下請けでしかなかった。ユダヤに独立はないも等しかった。その中で耐えながら、彼らは信仰を失うまいと神の前に自らを起たせようとしていた。しかしすでに信仰も節操も失ってしまった人々も多かった。信仰より金と割り切る人も多くいたに違いありません。つまり神の支配が見えないのです。神のリアリティがないのです。

9章には生まれながら目の不自由な人が登場します。生まれながら目が見えないというのは誰が罪を犯したからなのか。弟子達の問いでした。説明のつかない不幸を前にして、なぜと問うのです。神の支配はどこにあるのか。なぜ神がそんなことを許されるのか。ことによると、ニコデモは最初にそういう質問をしたのかもしれない。イエス様あなたは神から送られたラビ。神が共にいるのでなければあなたがしているようなことはできるはずはない。だから<神のリアリティを見せてほしい><力を尽くして誠実で、立派な人間になるように努力したら、良いのか。あなたが神の支配を身にまとっている。神の支配をどこで手に入れればよいのか。>

そこで主イエスが言われたのは、「そうではない。あなたが、生まれ変わるのだ。」主イエスはそういわれたのです。この新たにと言う言葉は、上からと訳されもします。上からの力によって生まれる。5節には「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国にはいることは出来ない。」
神がお働きになるというのであれば、その支配を受けて霊を受け入れ、洗礼によって、答えること。つまり主体的に神の前に歩むことが必要なのです。

しかしニコデモは分りません。4節はすこしばかばかしい表現です。でも少しは分るような気がする。人は20歳代なら、人生をやり直すことは出来ないわけではない。でも40を越し、50を過ぎ、60歳代にでもなろうものなら、人生の全部をひっくり返してやり直しが聞くとは思えません。しかし「水と霊」というのは洗礼を指すと考えられます。むろん強調されているのは霊を受けると言うことだと思います。

11-15 信じるものは、永遠の命を得る。

民数記21:4-9 人々が罪を犯したとき、神が蛇を遣わして罪を犯した人々をかんだ。人々は耐えられなくなって、悔い改めを願った。そのとき神はその蛇を旗ざおの先に掲げて人々に見せるように命じた。罪の裁きのしるしであった蛇は悔い改めたものが、これを仰いだとき、命をもたらすものとなった。十字架のしるしです。

出エジプト記、民数記に登場するイスラエルの人々は極め付きの自己中心主義です。エジプトの奴隷から解放されて、今は不自由があるけれど約束の地に向かっているのです。でも彼らがモーセに言ったのは「奴隷だった時の方がよかった。腹いっぱい食べられたもの。」
そしてモーセに「あんたは我々をこんな砂漠に引き出してここで空腹と渇きで我々を殺すのか?」といい、モーセを殺しかけさえしたのです。

14節は少し不思議な言葉です。そこまで自己中心的なイスラエルの人々がモーセの旗竿の先に蛇を見上げた時に救われた。このあげるという言葉は、十字架につけられる言葉と同じ言葉だと注解書にはあります。

3:13,14

主イエスは天と地を結ぶ唯一の方なのです。あげられたとは十字架に挙げられたという意味と共に高く天に挙げられた、高挙されたという意味を持っているのです。主イエスは人間の肉体を持った地上のイエスであるとともに、朽ちない命、時間と空間に制約されないいのちが十字架のイエスにおいて与えられるのです。

わたしたちは一人の人間として限りある生を生きるのですが、同時につまり信仰によって、神の永遠の命につなげられるのです。この地上の生を生きながら、何等かの永遠性に出会うのです。

繰り返しますが私たちは有限な生を生きる中に、ただすべてが日常ではなく、ある時神の啓示に出会わせられます。わたしたちの日常はイスラエルの人々のように不平不満があります。でも主イエスが自ら十字架に上がってくださったから、そういう私たちに朽ちる命ではなく、永遠につながるいのちさえいただけるのです。信仰生活はただ、日曜ごとの礼拝だけではないのです。

イエスは十字架の上に挙げられた。イエスがそうして父なる神に従った。キリストを信じるといっても、わたしのためのキリストという考えにある人もいる。人生を左右するような、大切なところで、キリスト者は、このキリストを見上げます。私はキリストのために生きるのだ。神のために生きるのだ。それこそが人生の大切な土台として生きる。

(2020年06月14日 礼拝メッセージ)

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