イエスキリストを思い起こす

テモテへの手紙二 2:8-13

新改訳聖書では<いつも>という言葉が入っています。書き込むことができるのなら自分の心にしっかりと書き記したいと思いませんか。

<これが私の福音です。>
口語訳ではこの部分を断定的にワンセンテンスで訳します。そしてパウロが福音と語るときに、<キリストの福音>とか、<神の福音>とか、<私たちの福音>などといろいろな言い方をしています。コンコーダンスをひくと無数に出てくるのです。そのなかで<私ののべ伝える福音>と個人的にというか断定的に語るのはどうやらここだけです。パウロが一人の伝道者として、否、一人の信仰者として、これなくして立っていけない、かけがえのない福音がここにあるのだ、とここに言い切った。

私たちはキリスト者ですが、これが私の福音と信じて出発した第一歩があります。わたしたちはそれぞれに信仰生活を歩みます。神を信じる生活とは、他人の目には小さいものとしてしか映らないだろうが、当人にとっては大きなものです。自分自身が突如として神の存在、神の臨在を覚えさせられる時が、あった。だれの経験でもなく、わたしの経験として神がわたしたちの心に記してくださる。

礼拝にきて、聖書の御言葉を聞いても、たちまち空(くう)に通り過ぎてしまって、すぐ忘れて消えて行ってしまう。でもパウロが言うのはただイエスキリストを思い起こしなさい。わたしたちの信仰とはそれで十分。パウロは一人の伝道者として、一人の信仰者としてよろこびの時、悲しみ、絶望の時でもいつも思っている一つのことがありました。イエスキリストです。この方をいつも思い起こすことです。

思い起こしなさい、想起しなさいという言葉が使われています。これはキリスト教信仰にとっては重い言葉です。礼拝をおこなう。それは尽きるところ、わたしたちは「思い起こすのです」ほかでもないイエスキリストを思い起こすのです。説教も尽きるところ、イエスキリストを思い起こすのです。聖餐式とは「主イエスが愛と誠をもって人々に仕えられたことを、わたしたちが絶えず思い起こして心に刻み付けること」と私たちの式文で朗読されます。

この希望に満ちた言葉を記したとき、パウロは獄中にいました。9-10 パウロを一人の伝道者として立たせたのは福音でした。けれど今パウロは牢獄に閉じ込められ、鎖につながれる身となっています。パウロの務めは牢獄では果たせないのです。もはや福音を伝える役目は終わってしまったのか。そうであるならパウロは絶望しかありません。しかしパウロはそこでこそ書き記すのです。「イエスキリストのことを思い起こしなさい。わたしの福音はダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」
さらに「この福音の為私は苦しみを受けついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。」
まさに名言です。主イエスの福音を述べ伝える伝道者がたとえ鎖につながれても、神の言葉を鎖につなぐことは決してできない。<これが私の福音なのだ。>

奥多摩に福音の家という研修センターがあり、そこはドイツのリーベンゼラーミッションが経営しています。今はどうなっているかわかりませんが2,30年前はキャンプ場にしてはおいしいドイツ料理がふるまわれました。以前ここにいたドイツ人の宣教師と話したことがありますが、かつて1930年代―ドイツ敗戦まではリーベンゼラー教会にもナチのカギ十字の旗をが掲げられていたとのことでした。1933年1月30日にヒトラーが政権につきます。ドイツの教会の多くがヒトラーに迎合します。しかし1934年5月にドイツ福音主義協会に属する人々が、カール・バルトを中心に、ヒトラー政権にノーを唱え、バルメン宣言を発表したのです。ナチズムへの不服従を鮮明にします。その冒頭は「聖書において証されているイエス・キリストは、我々がきくべき、また我々が生と死において信頼し、したがうべき唯一の言葉である。」と述べ、最後の6条でこの第2テモテ2:9が引用され「神の言葉はつながれていません。」で閉じられます。

こうしてヒトラー政権と教会の戦いが始まります。多くの牧師たちがさまざまな強制収容所送りになります。ヒトラー政権と告白教会との戦いもそうですし、パウロと世俗権力との衝突も、教会側にとっての勝ち目は全く立たなかったでしょう。そんな戦いよりさっさと教会本部にハーケンクロイツの旗を立てて、牧師もハイル・ヒトラーと叫んだほうが早いと思われたかもしれない。実際多くの教会がそうした。初代教会の伝道でも、1930年代の教会の戦いでも、同様に、人々の心は揺れ動いた。きのうまで耐えてきたけど、明日はもう耐えきれないかもしれないと思ったこともあるかもしれない。いっそのこと苦労のない方向に動き出してしまうかもしれない。信仰を貫こうと思う一方で、もう無理だと思う気持ちもある。11節、12節、13節は当時の教会の讃美歌と言われています。「たとえ私たちが誠実でなくても、キリストは真実であられる。」
誠実とか、真実と訳されている言葉は、信仰という言葉と同じです。

たとえ何十年信仰生活を歩んでこれたとしても、それで私たちは、別に他人に誇れるような信仰に至るわけではないと思います。わたしたちの信仰、神の前の誠実さが、信仰を成り立たせるわけではないでしょう。キリスト教信仰はある意味では点なのです。だからこそキリストは常に信じていてくださる。点と点の間は神の言葉が忘れられているかもしれない。年に何回かは礼拝の招きの言葉としてイザヤ書49:14-16を読みます。このイザヤ書の言葉はイスラエルにとって最も苦々しい時代に語られた言葉でした。つまりバビロンという強大な国によってユダの人々が捕囚となりバビロンに連れていかれることになったのです。

イスラエルの人々はまさに「主は私たちを捨てた。」「主は私たちを忘れ去られた。」と叫ばざるを得ない絶望状況だと見えた。その時神の言葉は語ります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よわたしはあなたを私の手のひらに刻み付ける。」

神はその愛ゆえにいつもあなたを覚え続ける。そうした愛の中で私たちも神を覚えことができます。教会というところは、そうした一人一人の思いや経験が積み重ねられてゆくところです。合わせて神の愛をわたしたちは記憶してゆくのです。

(2020年06月07日 礼拝メッセージ)

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