神にあって

ヨハネの手紙一 4:7-11

今年1月に中国の武漢でコロナ感染症が発生しました。当初は「また中国か、そのうちいつものように治まっていくのだろう。」と、世界はあまり大きな注意を払いませんでした。やがて2月に入るとダイヤモンドプリンセス号が集団感染を起こし騒ぎが大きくなり、また中国から帰国した人々の罹患が徐々に不安を巻き起こすことになりました。

この中国の1都市で始まった感染症が、よもや、半年で世界の850万人が感染し、45万人が死に至らしめる恐るべき病に発展していくなど予想もできていなかったと思います。このころはまだオリンピックも完全な形で行うと言っていたのです。ゼロからこれだけの感染ですから、ウイルスの質量ともに力をつけているなら強力なワクチンが一刻も早く開発されねばならないでしょう。問題はゼロから半年で850万人の罹患だとすれば、残りの半年はすでに言われているように アフリカ・南米の感染爆発を最小にする医療の協力が求められます。今なお感染者がどこまで増加するかわからないのです。

たしかに、わたしたちすべての人間は心にも体にも、何らかの病気やウイルスや障害を抱えこんでいるものです。そして水野源蔵さんの詩も星野富弘さんの詩と美しい絵も、障碍を負われたからこそ生まれた詩と絵画です。障害や病を負うところら深い思索や、それであるが故の苦労を担うことから生まれる深く、美しい生き方を人は造り上げてゆくこともあります。

今日与えられているヨハネ第一の手紙は神の愛を語ります。4:9 「神は一人子を世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きる様になるためです。」
むろんすべての子どもたちが親の熱い愛によってはぐくまれるべきです。でも時代によっては差別や憎しみが掻き立てられる時があります。昔精神科医の赤星進先生の講演会をに行き、新生児はおむつに排出することで母親とのコミュニケーションというか、愛情のやり取りを経験する。母親が愛情をこめて赤ちゃんに語りかける、新しいものに交換してあげる、それが人間としてのコミュニケーションの出発になるという話を聞いて感動した覚えがあります。親と言えども憎しみや恨み、エゴや敵意を心に抱えることもあります。つまり罪を宿す存在です。罪は人を孤独にします。その人の心から平安を奪い、不安に陥れます。それは人の生きる力を奪い去ります。親が不安な心理状態になれば、子供と間も不安になります。ひとには神の愛が必要なのです。

いのちの源である神から離れれば、人間同士の交わりもできなくなります。世には途方もない罪が生まれ悲惨な出来事が人々を苦しめます。争いがあり、ねたみがあり、暴力と殺人があります。

しかし世はただそれだけの世ではありません。「神は一人子を世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きる様になるためです。」4:10

中国の文化大革命時代のお話です。ドキュメンタリー番組です。当時都会から農村に政策的に移住させられ農業に従事させられた人々がいました。下放(下に放つ)と書きます。下放青年たちは恋愛も、結婚も許されなかったのです。しかし若者が集まれば、ひそかに恋愛関係を結ぶことは起こることです。実はその陰で数えきれない子供が生まれ捨てられた赤ん坊が相当数いたのです。中国人の偉いところはその子供たちは貧困の中で育て親として手をあげて、労働力として育てられたそうです。そうした一人の女性が成人して、父母を見つける番組です。母親は登場しませんでしたが、父親とは再会できました。彼女が父親に聞きます。「なぜ自分は生まれたのか」
父親は言います。「あなたは気遣ってくれる人が必要だった」
自分は育てたくても育てられなかった。でも「気遣ってくれる人が必要だった」
たとえ血がつながらなくても、自分の生まれた理由、この人が、私を気遣ってくれるその人が存在すると、自分の誕生日が祝える。 誕生を喜ぶことができる。

中国人について様々なことが言われます。戦争が終わって、数十万の人々が満州に取り残されました。そうした中で数万人にも及ぶ日本の子どもたちが置き去りにされ、中国の人々が自分の子として育ててくれました。中には日本兵の子どもといじめられた人もいたでしょうが、中国人の育ての親となった人々は愛情をこめて育ててくださったのです。彼らはわが子のように子供たちを気遣ったのです。

わたしたちが生きる様になるために、神は一人子をお遣わしになりました。このことを信じて、そう信じることがわたしたち自身の生きる力にまでなるのです。この信仰は私たちの生まれた理由を神の愛の中に見いだし、また気遣ってくれる人をキリストの中に見いだします。そして自分の人生を喜ぶことができます。

一人子をお遣わしになりました・・・は完了形で書いてあります。使わされたけれどた元に戻ってしまったというのではありません。遣わされたその結果二度と戻らずに世におられ、ともにいてくださる方がいつづけるのです。御子をお遣わしになったということは、その結果、御子は世に臨在し続けるのです。復活の後、キリストは召天なさいました。それは世に派遣されたことを辞めたのではなく、神に所属する方としてあまねく臨在する方になったということです。高くあげられたキリストは礼拝ごとにみ言葉を通し、聖餐を通し、礼拝にともにおられます。私たちが信じ、信頼して神を呼ぶときキリストはともにおられます。というよりキリストは召天された御子なる神として、私たちに臨在なさるのです。だから私たちは生きる様になりうるのです。

すると「神の愛が、私たちの内で全うされる」
我々は神のうちにとどまる。

信じましょう。

(2020年06月21日 礼拝メッセージ)

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