心・一新され

使徒言行録(使徒の働き) 2章 1-11節

炎のような舌が現れて、色々な言葉で話し始めた

ペンテコステ、精霊降臨節の礼拝を迎えています。教会にはクリスマスと復活祭とペンテコステの大切な記念日があります。記念日というのはやはり大事なものです。聖霊降臨日は言い換えれば教会の誕生日でもあるかもしれない。その日、一体何が起こったんだろうかということを問う日だと思います。地上に初めて教会が生まれた日です。
教会というとイメージするのは建物です。尖塔があるとか、鐘があるとか、大きいとか小さいとか、そういうことが一番気になるかもしれない。あるいは、何人くらい信徒がいるのだろうか、どういう信徒だろうかというのが気になったりするかもしれない。会堂のあるなし、信徒の数がそろっているか、組織的になっている教会であるかということが気になるわけですけれども。それが教会であることの証明にはならないと思います。
使徒言行録はどれほど劇的に教会がローマ帝国内で成長していったかだけが述べられるのです。それは、弟子たちが頑張ってそれを実現する力があったからそうなったかもしれませんけれども、聖書はそう語らないのです。

この聖霊降臨日に先立つ10日前、主イエス・キリストは弟子達を地上に残して天に帰ったのであります。その時、弟子たちはボロボロの姿であったと言っていいかと思います。彼らはイエスを裏切る者になる。他ならぬ自分たちが平気でイエス様を見捨てて、自分さえ助かるなら嘘もつくし逃げ出しもする人間であることを世間に暴露してしまった。日頃は大きなことを言っていても、いざとなれば人間の弱さ、醜さを残らずさらけ出してしまう。最低の人間であることを思い知った。
人間は誰でも自分のことは自分が一番よく分かっていると思っています。でもそうでもないようです。まさかこの自分が主を見捨てて逃げ出すなど考えもしなかった。でもその場になると嘘八百と裏切り。
現代においても人は思いもよらない不祥事の山に日々気づきます。弟子たちは、いざとなれば日頃の聖人ぶりをかなぐり捨てて、主を見捨てて、自分でも思っていなかった自分が飛び出してしまう。聖人が本物なのか、主を見捨てる自分が本物なのか、それすらわからない。
弟子たちはイエスの十字架に立ち会うことになって、自分自身のむきだしの限界を見せられた。自分自身の問題性の深さに慄(おのの)いたことです。神の何らかの業に期待する以外には方法がない。そこで弟子達は祈ったのです。
「五旬祭の日が来て、一同が一つとなって集まっていると」
集まって一つとなってお祈りをしていたということです。何の不思議もないことだと思いますか? そうはいかないんです本当は。通常の人間の集まりなら、お互いが責任追及の場となって裁き合いとなり、いっそう人々は傷つけ合いバラバラとなっていったことです。ここでは和解や許しがいきていたということになります。
何の変哲も無い日常のように見えますけれども、教会は集まること自体が神の業。こうして集い合う、確かめ合う、優しい想いを交換する。そのこと自体がとても意味があることなんだと思います。

そしてその時に天から音がして、それが家中に響いた。聖霊が降ったというのです。聖霊に満たされると突然の劇的な変化に見舞われた。9節に地名が出てきてますけども、「パルティア」って冒頭に書いてあります。パルティアはペルシャです。エラム、メソポタミア、カパドキア、アジア、つまりこの辺はトルコのあたりだと思います。それからエジプトもそうです。キレネに接するリビア、北アフリカ、ずっとその辺です。この人々の言葉がお互いに行き交った。そしてそれまで弟子たちはとても臆病だったのに、イエス・キリストのことを3度も知らないと言って否定したペテロが、勇敢に立ち上がってエルサレムの人々に説教をした。人々に悔い改めを促した。その結果、以前のペテロが最も恐れていた投獄が待っていました。しかし今は投獄さえも恐れない、何か恐るべき変化が弟子たちを捉えていた。

洗礼をお受けになる二人も大きな変化を経験なさった方だと思います。こうして共に礼拝に集う、そして新たに洗礼を受けようという決断は、なま優しいものではないと思います。

弟子達はそうした中でイエス・キリストの復活は間違いのない事実として突きつけられていたわけです。しかし弟子たちは積極的に伝導に打って出ようなどとはしなかった。そんな気にならないでいた。沈黙の人々だった。
ところがそこに「突然、激しい風が吹いてきて音がして座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が別れ別れに現れて一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに他の言葉で話しだした。」
実際に何が起こったのか、そこにいた人々しかわからないかもしれない。でもこうした表現でしか言い表せない何らかの精霊の出来事が弟子たちを包んだのです。あの不安で確信も持てない、しかも主イエスを裏切った深い悔いと、心が引き裂かれるような深い恥を感じていたはずの弟子たちが、神の赦しを確信できたのです。深く心の奥底に傷となっていた後ろ向きな思いが、その暗闇の深さの分、輝くような明るさが与えられた。

ペンテコステの出来事は炎とか舌とか言われるような、言葉で説明することは難しい不思議な現象しか描かれません。しかし弟子達の変化こそ説明不可能な実態であります。人は自分で自分を変えようとしても変われない存在です。ぺテロは自己訓練と自己告白で積極的な使徒に変われることができたんでしょうか。後に出てくるパウロは自分の心の気付きで、キリスト教の迫害者から宣教者になりえたのでしょうか。
いいえ違います。
それは他人には分からない聖霊の働きです。ペンテコステにおいて起こった出来事は、すべて天的な力として降されたものでした。その結果、変わりようのない弟子たちが変わり、教会が生まれた。教会は地上的な見える形で存在しますけれども、天上の教会が地上に降りてきた。教会でなければ起こりえないようなことがあります。顕著な聖霊の働きが起こり、人が変えられる、人生が変えられる。聖霊の働きのない教会は形では教会にあっても中身は教会ということはできないかもしれない。

私たちは神様に導かれて信仰に生きています。今や世界中に神の民がいて、今日のペンテコステを祝っているはずです。韓国の教会も。忘れてはならないのは中国の教会です。中国の途方もない多くの人々がキリスト者に回心している。そうでしょう。そうだろうと思います。
神様は私たちの思いや祈りという地上の必要に目を閉ざされているのではないのです。私たちが途方に暮れるとき、神様は目を閉ざしているのではない。ペンテコステは、そういう出来事だと思います。

数年前にイタリアのアッシジを訪ねました。あの聖フランシスコが神からの声を聞いて作り上げた教会、古い会堂があります。多くの人々は壮麗なカテドラルの方を見学に行くわけですけれども、私ども夫婦は聖フランシスコが托鉢(たくはつ)をしながら最初に建てた教会を見ました。壮麗な大聖堂を通り越して、オリーブ畑の向こうに今にも倒れそうな石造りの施設がありました。それは教会というよりも、どう見ても食堂なのです。フランシスコは食べ物のない貧しい人々のために、まずこの建物を建てたということだったと思います。
教会とは、そういうところだと思います。貧しい人も皆一つとなって集まってパンを割き、神を賛美して共同体を築き上げている。その原動力は精霊であります。集う人々には他者を想う愛があります。

私はこの由木教会に来てあっという間にもう50年近く経ってしまいましたけど、お隣の高幡カトリック教会にいたコンスタン・ルイ神父のことが忘れられません。あのルイ神父様の書斎には在日韓国人、朝鮮人への差別について書かれた多くの書物が並べられていました。ルイ神父も一人の在日外国人、在日フランス人です。ですが同じ在日でありながら朝鮮半島出身者とヨーロッパ人で扱いが全く違うことに驚かされたそうです。
当時、在日外国人は外国人登録証の常時携帯が求められ、そこに指紋押捺が強要されていました。彼は指紋押捺拒否をして裁判の場に引き出された。その裁判はルイ神父による信仰の証の場であったとさえ言われています。裁判の進行の中で、ルイ親父を告発していた国側の検事がカトリックに回心したという出来事があったそうです。さらにその方が国側の告発の不当性に気が付かされて、検事を辞めて人権専門の弁護士に鞍替えしたそうです。

精霊が臨むとき驚くべき出来事が起こる一つの事例です。これを聖霊の御業と呼ばずして何と呼ぶでしょう。こういう出来事が起こるところが教会であります。
今日2人の人がこうして洗礼をお受けになります。本当に心から喜んで私たちはこの2人を受け入れたいと思います。この喜びをなんと表現したらいいかわかりませんけれども、私たちは心から歓迎したいと思うのであります。

お祈り

神様、あなたは精霊として私たちの内側に働きかけてくださる方であることを心から感謝します。あなたは私たちの祈りを手に取ってくださり、その私たちの切なる思いを受け止めてくださる御方でいらっしゃいますことを心から感謝します。どうぞあなたの前に私たちのこの歩みを祝福してくださることを心からお願をいたします。私たちすべての上にあなたの業が豊かでありますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン

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