主イエスに友と呼ばれ

ヨハネ福音書 15章 12-17節

互いに愛し合うことが主の戒め

「わたしがあなたがたを選んだ」という説教をせていただくわけですけれども、聖書箇所は全く同じなんですけれども、説教の内容を多少、変えてお話をさせて頂きたいと思っています。そして「主イエスに友と呼ばれ」というタイトルに変えさせて頂いたのです。お許しをいただきたいと思います。

私は1944年の10月に、今はサハリンと呼ばれる南樺太の上敷香(かみしっか)で生まれています。終戦の1週間前にロシア軍が押し寄せてきて、日本は戦争状態になったわけです。父が公務員でしたので、私ども一家は武装した駆逐艦に乗って南樺太から無事に稚内に到着したのであります。私は赤ん坊でしたから、そのあたりの記憶は全くないのです。もう亡くなってますけども、8歳年上に兄がおりまして、兄によると、避難する旅客船に乗せられた人々はソ連の潜水艦に撃沈されて、多くの人々が亡くなっているのです。その点、私どもは重武装の駆逐艦におりましたものですから困難は無く無事に到着したのです。犠牲になった人々の思いを受け止めると、なんとも言えない複雑な気持ちがいたします。
当時、60万人もの人々がシベリアに抑留されたというのです。5万5千人の人々が収容所で亡くなったと推定されています。そういう背景の中で我が家はともかく無事に東京に着き、父親は内務省から外務省に、いわば転勤となる形で公務員の生活が続けられたのです。しかし父親は樺太に置き去り、あるいは目の前で犠牲となった人々のために、戦後の課題というものに取り組むことになったんじゃないかと思うんです。父親は麻布に引き上げ者のための住宅を数百戸建設するプロジェクトを立ち上げたようで、そのために我が家の戦後は父親による家庭の省みはまったく無かった。私は全く放任されて育ったようなものであります。戦後、両親がそれぞれ最晩年に、病気を得たことをきっかけにしてキリスト者として生きてくれたことを、計り知れない神の恵み、神の御業と覚えております。
私は生まれた故郷を全く知らないのです。言ってみれば典型的な故郷喪失者であります。3人の兄弟の墓は樺太に置き去りになったままでありますし、既に両親はありませんし、兄も他界しております。私の故郷と言えるところは何処だろうか。最初から数えれば、この由木での生活は50年近い年月が経っているのです。ですから故郷は由木そのもの。由木教会そのものではないか。
ここで多くの友人が与えられ、教会員の方々と深い付き合いを許され、牧師仲間もおります。キリスト教信仰に出会えなかったら、自分の人生はどこで碇を下ろし、どういう方向に歩み進んでいったのか。何もない人生であったかもしれないと思えざるを得ないのです。私はここで人間として歩むことを許された。両親も長くはなかったけれども、生涯の中でキリスト者として歩めたことに、どれほど満足感を覚えたか。それはもう計り知れないもがあると思います。

自分はなぜキリスト者になりえたのだろうか。
それは自分の人生にとって最良の選択であったと思う。それ無しには、私の人生は空に等しい。ですから、信仰生活を選べたことが私にとって唯一の喜びとするところですし、平安を見いだすところです。
ところが今日の聖句には「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と書いてある。私は自分で信仰を選択したと思っています。それが自分の人生の拠りどころだと思っています。しかしそれはやはり自分自身の選択ではなかった。主イエスが直接手を伸べて選んで下さった。神が選んでくださって、イエス・キリストが私の魂を捉えてくださり、ご自分のものにしてくださった結果だ。そして私自身は魅了されるようにしてここでの信仰生活をスタートし、足りない事だらけの牧師としての歩みでしたけれども、ともかく今まで導いてくださった。
私はどれほどの熱意を持って、自分の命を捨てるほどの信仰生活を歩んできたのだろうか。果たしてどうだったんだろうかと自分自身で振り返るわけであります。これでよかったのだろうかということだらけです。そうした中で(14節)「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」という言葉は妙に引っかかる。といいますか、挑戦してくる言葉です。

12,13,14節の聖句を読むときに、ある出来事を思い起こします。
(12~14節)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
ちょうど20年前でした。2001年の1月26日、新大久保駅で線路に落ちた男性を救おうとして、韓国人留学生の李秀賢(イスヒョン)さん(当時26歳)と、日本人カメラマンの関根史郎さん(当時47歳)が線路に飛び込んで、近づいてきた電車に3人ともひかれて亡くなったという悲劇的な事件。この日が近づくと毎年、新大久保駅の現場で慰霊の祈りの時が持たれているそうです。だんだん参加する方が多くなってきて、日韓の心が通じ合う事を祈りに込めて、奨学金のようなものが参加者の中から作られたというようなことを伺いました。数年前、今の上皇となった平成天皇夫妻が弔問に出掛けたということで、非常に多くの人々の関心を呼びました。
どうしてそれほどのことができたんだろうか。
それは日頃から人助けをしようというシュミレーションの結果などではなくて、とっさの行為であっただろうと思います。とっさにしろ何にしろ足がすくむような行為です。英雄的な行為です。なぜそうできたんだろうかと、私は不思議に思います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というのは、こういう行為を指すのだろうか。とっさの出来事であって、良し悪しを判断するような余裕はなかっただろうと思います。「わたしの命じることを行うならば」とは、こうした犠牲的、英雄的行為なのだろうか。そうではなく、むしろ主イエスの生き方、生き様そのものを語られたのか。イエスが私たちを友と呼んでくださり、私たちのためにご自分の生涯と生命を注ぎ込んだ想い。そうした事実を語っておられるのか。迷います。

主イエスを愛し、主イエスとの関係に生きる時に、以前には考えられないような出来事が起こる。「こうすべきだ」「ああすべきだ」という倫理の地平からは、私たちは到底不可能という終点、あるいは現実しか見えてこないのであります。けれどそれを信仰の世界に引き上げると、主イエスはすべてご承知の上で、主の赦しの中で歩んでいいと言っててくださるのだろうとも思うのです。
実際そこまでしなければ主の友と呼んでくださらないのか。そうなんだろうか。わたしの友、主イエスの友と言ってくださる人はどういう人なんだろうか。

日常世界の中で、そこそこの付き合いをしている人々はたくさんいます。ですがそこは、なにがしか利害関係であったり仕事や事をうまく運ぶ方便が絡まっていたり、やむを得ずだったりします。そうした中で教会の交わりがあります。私たちの教会の交わりの土台は聖書の冒頭に書いてあります。自由意志です。神様が人間、アダムとエバを創られて、生きることの大前提として二人に与えたのは自由意志です。そこには真実と責任が伴いますけれども、神様は最初からアダムとエバに、神に従うか離反するか選べる自由を与えたのです。自由にモノを判断し自発的行為で神を愛する。これをどう充実していくかを、人間の最も大切なこととしてアダムとエバに託した。これが聖書の冒頭に描かれている世界です。
こと信仰に関して言えば、神から遠のこうが礼拝をやめようが、その人の自由な選択であります。どう判断しようと誰も非難できないし、されるべきでもありません。それだけに、それを踏まえた教会の交わりは豊かであろうと思いますし、意義も深いのだと思います。
教会で歩んでいると20年30年という関わりは特別なことです。今日はクレタさんが30年、由木教会で歩みをしていただいたことの一種の記念の時であります。これは特別ではない。しかも家族の誰かが教会に行くと家族全体が教会に行っているような気分になっていきます。影響を受けます。影響を受けないはずはありません。そうした中で主イエスから「わたしの友」と言われることは、やはり特別な関係だと思います。

福音書において、主イエスが弟子たちを「友」と呼んだのは数箇所ありますけれども、印象的なケースがあります。マタイ福音書の26章50節です。(47節〜)「イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダがやってきた。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣(つるぎ)や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、『私の接吻するのがその人だ。それを捕まえろ』と前もって合図を決めていた。ユダはすぐにイエスに近寄り『先生こんばんは』と言って接吻した。イエスは『友よ、しようとすることをするが良い』と言われた。すると人々は進みよりイエスに手をかけて捉えた。」
イスカリオテのユダがイエスを裏切った。ゲッセマネの園に群衆を案内して、裏切りの接吻をした。主イエスは、あえてユダを「友よ」と呼びかけました。そこには、普通の人間の理性をはるかに超え、裏切ることに対してさえ注がれるユダへの愛が込められていたと言う他はない。この時のユダは「先生、何ということを言うんですか」という思いがしただろう。違和感を感じたと思います。他の弟子たちは「友」と呼んだことを理解できなかっただろうと思います。
主イエスにとって友とは良い事、善行を心がける理想的な人間ではない。あるがままのユダや私、決して飾ることもない我々を友と呼んでくださる。かつて裏切った経験を持つ者を「友」と呼んでくれたのだ。キリストが私たちを愛していてくださる、赦していてくださる、友と呼んでくださるように、我々もそう生きるべきだ。

私たちの愛や理想は往々にして、自分でも実行できないことを相手に求める。
「相手がこうしてくれればいいのに」
「こう愛して、このように扱ってくれればいいのに」
現実には相手に対して突きつけるだけの行き届かない愛であります。あのユダすら友と呼んでくださった主イエス。ですから精一杯に神の前に歩もうとする私達を友と呼んでくださる。そこには計り知れない赦しと途方もない和解への招きがあります。その想いを引き受けて、私もこの人やあの人を友と呼ぶ。そこに新しい赦し合いと協力の世界が開けていくのではないでしょうか。

お祈り

神様、あなたは私どもを「わたしの友」と呼んでくださいます。あのユダに対して「我が友よ」と呼びかけたように、私たちにも「我が友」とあなたは呼んでくださいます。あなたの前にそうしていただく価値は無いような者ですけれども、あなたがそうしてくださいます。ありのままの我々であることを喜んでくださる。行き届かない中で精一杯に歩んでいるこの私たちの歩みを受け入れてくださる。あるがままの私を、そのままの存在を受け入れてくださるあなたの前に、こうして歩んでいけることを心から感謝いたします。どうぞあなたの前にこの歩みを更に充実して歩んでいく者でありますように助けを与えてください。私たちがあなたの弟子でありえますように。私たちの祈りを聞いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

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