生かされているので

「わたしたち人間は、生きているのではなく、生かされているのだ。」
一般的にもそうしばしば言われますし、無論聖書もそうわたしたちに語っていると思います。そこには人を生かす偉大な存在である神なり、宗教的な考えが前提にされていると思えます。だからこそひとの固有な生命や人生は、自分のものであるとともに、自分のものではないわけで、自死という選択はあってはならないと、考えられています。しかし人生というトピックほど、他人と引き比べるものはありません。人生はあまりに不平等で、この世に生まれ出た瞬間から、神が与えた条件はこの上なくアンフェアに感じることが少なくありません。
そもそも、生まれた子にとって、親を選ぶことが出来ません。また生まれた時代も選べません。今から70年前に生まれた子どもは、言葉の上では「天皇陛下のために、命を捧げるために生まれてくれた。バンザイ。」といわれたかもしれません。そのほかに、能力、境遇、貧富。較べれば較べるだけ、不平等が無限に広がっていくような思いがします。主イエスのたとえによると、ひとはある人には十タラントン、別の人は五タラントン、さらにほかの人には一タラントンが与えられるといわれました。確かに不平等は主イエスも認められた人生の現実です。

ですが与えられている一つの有利さが、幸不幸を決めるものでもなさそうです。金持ちが常に幸せとは限らないのです。貧乏な私がこう言っても、説得力には欠けますが・・・。
しばらく前に、ジャンボ宝くじに当たった人が、なれない金を持って、ついに身近な人々と金銭トラブルになって、殺されたという事件がありました。宝くじに当たらなかったら、彼はまずしくも平穏で、小さくても幸せな人生を全うしたかもしれない。
後世に名を残すような芸術家にしても、あまりにも時代に先行したため、同時代の批評家からはこき下ろされ、民衆からも背を向けられ、生前には極貧の中に生きた人はおおくいました。だからこそ、じぶんに無いものを数えることは、少しも意味がないのです。むしろ<ないこと自身>が、すぐれたこと、時代を超えていること、平凡でも幸せでいる秘訣につながっていること、かもしれないのです。
たいせつなことは、この自分に与えられている現実を、否定としてみることを金輪際やめることなのです。与えられた<私の現実>をまずは喜んで引き受けることです。

背負っていかねばならない現実は、世界のどこに住んでいようと、どんな境遇に生まれようと、人間として避けることは出来ません。確かにそれは背負うという意味では十字架です。しかしこの十字架をとおして、人は忍耐だけでなく、生きる喜びや人生へのより肯定的な生き方を深く教えられるのです。人生にはこちらが望んだとおりにならないことも多いことに違いありません。でもそれでいいのです。何もかもうまくいっている人は、自分が神になったかのような傲慢におちいるほかはないでしょう。それこそ最大の不幸だからです。

(2010年08月22日 週報より)

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