許しと和解の力があふれ

毎週毎週さまざまな不祥事や事件が伝えられます。中には人の予想を覆す、意表を突く出来事があるものです。数ヶ月前に九州のある場所だと思いましたが、その地域で評判の人格者と思われていた70歳近い男が、神父を志す息子を、保険金目当てで殺害したと言うのです。その父親も「敬虔なクリスチャン」と報道されました。おそらく当の教会にとって見ればまったく迷惑な話で、その人が<敬虔なクリスチャン>であるはずはなく、そう装っていただけに過ぎないと言うことでしょう。一見クリーンそのものと周囲のだれもが思っていた人物が、実はだれよりもダーティであったと言う出来事です。これはあまりに極端な、非情な犯罪でした。しかし少し一般化してみると、そうした出来事は人間には、ときおり見出すことができるのかもしれません。

親と子だって一つの出会いです。男と女がであって、心通わせ、そして子供が出来たことを知ります。それは深い感謝に満ちた、神秘の出来事です。待ちに待って、赤ちゃんとの出会いがあります。それはそれは、嬉しい感動の出来事です。赤ちゃんはすくすくと育ち、やがて笑い、声を上げ、歩き始めます。しかし思春期をすぎて、しばしば親子関係は波風の立つことがあります。そうして子供は親から、自立していきます。やがて子供は親の身長を超え、社会的にも親を越えていったりするのです。やがて再び親子関係は力関係も逆転して、親密さを回復したりするのです。親が子供を理解する、子供が親を理解する、そこに至るまで途方もない労力と努力が必要なのです。

人生にはさまざまな出会いがあります。同性、異性の友人、職場、学校。人と人が出会う中で、多くのことを学び、時には心ときめく経験があり、交友関係は深まります。しかし、人が人を深く理解するうちに、その人のうちに知りたくなかった部分が当然見えてくる場合があります。やがて時には、人は「彼と知り合うのではなかった。」「彼女とは出会わないほうがよかった。」と後悔することさえあるのです。人が、ともに歩む人を理解するのは、お互い深く愛し、理解しあっていても、容易ではありません。

「この人は問題だ。」「あの人も問題だ。」そう指摘するだけなら簡単です。しかしそう云うなら「わたしも問題だ。」と付け加えるべきかもしれません。問題のない人などどこにもいないのですから。少なくも<キリスト者でありつづけよう。>と目指す志があるところであるなら、そこに亀裂や問題が発生しても、教会でも、家庭でも、いっそうの忍耐と勇気と愛を注ぐべきときと言えるのです。人はかかえきれないほどの罪を赦された存在です。人の罪はわれわれが自分に感じているものとは比べられないほど数多く、深いのです。他人の問題はよく見えても、自分の問題は少しも見えないわたしたち。自分の問題が見えないからこそ、他人の問題を指摘できるのかもしれません。

このわたしを、彼を赦す方が教会を支えます。和解と許しへの力が、教会にいよいよあふれますように。

(2007年09月02日 週報より)

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