私の生育歴

何か事件や犯罪が起こった時に、よく指摘されるのが、その事件を起こした人の生育歴です。どのような生育の環境にあったかが、人を造って行くといわれます。幼い子供達への虐待事件が絶えませんが、そうした出来事を引き起こす親も、幼い頃に殴られたり、蹴られたりして育った、虐待の連鎖の事実がある、といわれます。
私は一応、愛情深い両親に育てられ今があります。私が生まれたのは太平洋戦争の敗戦が濃厚になった1944年10月のカラフト。引き上げは軍関係者ということで、優先的に駆逐艦にのせられて、多くの人が取り残される中で、ソ連軍が迫る前に行なわれたのでした。結局、多くの人々が取り残されて、殺害され、自殺し、生き残った人々の多くがシベリヤに抑留され、残留孤児を生み出しました。そういうことが背景にあり、終戦後、父は、今となっては都心の一等地となった麻布に、引揚者のための住宅つくりに奔走した一時期がありました。その頃、母は引き上げで何もかも失い、かなりあった蓄えさえ、昂進するインフレでたちまち通帳や債券は紙切れになり、たよりにした夫は、他の人々の為に走り回り、家庭生活は第二、第三のものになったと感じていたようです。その時の母の年令はまだ三十代。今の私よりはるかに若く、おかれた状況は受け入れがたく、困難だったに違いない。
その頃のことを、父も母も一言も、その辺の事情を、私に伝えたことはありませんでした。自分の気持ちをどう整理するかさえ大変だった両親のもとで、私は自由に育ったのです。それは自由というより、放任に近い育ち方だった。今になって、親が、なぜああだったかを、だいぶ理解できるようになりました。母は必死で、懸命に、自分の気持ちを整理しながら、慣れない場所での子育てをしたのだろうと想像することができます。引き上げの状況や、終戦後の混乱ぶりについて、親が私に話せなかったのは、あまりにつらくて思い出したくもなかったのかも知れない。そうして私は生育されたのでした。

果たして、私の子供達は、我々の子育てについてどう言うのだろうか。しかし、私の人生も、両親の人生も、一点(一転?)見方を変える出来事を経験したのです。つまりキリスト者とされたということです。信仰に生きることは、過去をも変える出来事なのです。過去の事実は変わらないけれど、過去の見方が変わるのです。つまり、過去が変わるのです。両親は最晩年、キリスト者となって、満ち足りた信仰生活を歩んだ。母は最後に食道癌を病んだが、病気の中で驚くほどの勇気と平安を示したのです。キリスト者となったことは、不条理で冷酷な歴史の歯車に翻弄された苦しみを越えさせて、人生にYESと言う力を与えたと,私は感じました。使徒パウロはこう表現しました。

『神の恵みによって、今日の私がある。』<1コリント15:11>

ある日、腕に無数のタバコの押し付けによるヤケド痕のある青年が、数度、教会を訪ねられました。第一回目は、多少私が引いていたこともあって、彼も敵意というか、警戒感がありました。けれど二回目はだいぶリラックスしてくれて、自分の生育を語ってくれました。腕のヤケド痕は少年時代に受けたひどい虐待の結果でした。彼は思春期にやがて非行に走り、私を訪ねてくれた時は、保護観察中にもかかわらず、ホームレス状態にいたのです。でも、彼はやり直そうと思って、何度か教会の戸をたたいて、私のところにやってきてくれたのでした。ついに彼は、「自分もやり直したいです。もう一度裁きを受けて、お務めをして、キレイになったら、教会に来ていいですか。」いつか、彼の現われる日をわたしは待っている。
それにしても知って欲しい。キリスト教信仰は、過去をも造り変えるのだ、ということを。理想的な親などいるはずもないだろう。親を理由に、自分の人生をおとしめることは、新たな連鎖に過ぎない。

(2005年05月15日 週報より)

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