「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信することです。」<ヘブライ人への手紙11:1>

この年2011年も10月を迎え、3ヶ月を残すのみとなりました。1000年に一度という震災と、レベルセブンの原発災害。2万人近い死者・行方不明者を出し、数十万人に及ぶ避難生活者、そしてついに幼い子供たちまでが被爆した現実。忘れることの出来ない歴史を刻む時となったこの年。

時を見る見方は人によって異なります。先週、中国電力が原発建設を計画している山口県の上関町というところで町長選挙が行われ、原発建設計画が持ち上がった1982年以降9回連続で推進派が勝利したと伝えられました。日本中で原発への拒否感が高まるなかで、現に原発建設が持ち上がった場所では別の判断や思惑が大きく作用し、町民は別の判断を下します。

そうした判断とは正反対の方向ですが、キリスト者は、現在的な視覚的な現実を越えて、神が描いて実現に至らせてくださる<見えない現実>を自分のものとします。信仰に生きることは、困難な現実を前にしても、なお現実に圧倒されない力を人に与えます。
ヨーロッパの大聖堂の地下にはしばしば、カタコンベ(地下墓所)があります。キリスト者を迫害するローマ帝国の崩壊など夢にさえありえない現実の中で、キリスト者たちはキリストの勝利を確信し、賛美したのです。同様にヨーロッパの教会にはナチの強制収容所で殉教した牧師や神父の肖像画をあちこちで見ます。全ヨーロッパがヒトラーに席巻されるなかで、抵抗運動に身を捧げていくことはカタコンベの礼拝のこころに通じます。

信仰は、見えない現実を、見える現実に変えていきます。この信仰が薄れると、人は現在の状況に支配され、目に見える現実しか信じられず、社会的には大勢に順応することだけを願う生きかたを選んでいくことでしょう。時折社会は一人の指導者やなんらかの運動に熱狂することがあります。熱狂は熱狂を生み、伝染病のように蔓延し、人々の心を変えていきます。けれど現実が見え、熱狂が醒めていったとき、あの熱狂はなんだったのかといぶかるのです。キリスト教信仰は湧き上がる熱狂のなかで、見えない現実を見えるものにしてくれます。信仰者は悲観主義や絶望に沈没することはないのです。

ただ<望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信する>のは他ならぬ信仰者その人で、他人がその人に替わって、信仰に立ってあげることは出来ないのです。信仰者は(教会も!)問題に直面し、悩みつつ、さまざまな困難のなかで、神の前に存在をかけ、その弱さにもかかわらず(そしてその弱さのゆえに)必死に信仰を働かせます。信仰はそうした<必死さ>に成り立つとさえいえます。信仰のあるところに自らの保身でなく、むしろ自らの現在や将来をかけて神に生きようとするこころに、現実は変わりうるのです。
1989年のベルリンの壁崩壊は、ライプチッヒのニコライ教会の十数人の祈祷会とそのあとにもたれた平和デモがはじまりでした。信仰の祈りと神の平和を信じる心は、ベルリンの壁をくずしたのです。そうしてかつてローマ皇帝だった人がキリスト者であることを告白し、ヒトラーを自殺に追い込んだのでした。

この歴史的な2011年。惨憺たる年ではなく、おこりくる神の業を大いに期待しようではありませんか。

(2011年10月02日 週報より)

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