逆転

ひとはよいことでも、悪事であっても、何かを始めるについて、ことの正当化を計るものです。それが犯罪的な戦争や個人の万引き行為であっても、いちおうの理屈があります。逆からいえば、個人でも、国家でも、そこに何らかの論理構成ができなければ、一歩も前進することが出来ないと言うことになります。つまりあきらめると言うことです。
いつの時代であっても、年齢、性別を問わず、将来に希望を持つことができなくなった人々が、少なくないように思えます。何が人生をあきらめねばならないほどの理由になるのだろうか。そのつもりで理由をあげるとすると、ことによると、無数なほどの理由があげられるかもしれません。
「・・・だからきみはダメなのだ。」
「・・・だから自分には将来が閉ざされている。」

使徒パウロの言葉です。

わたしたちは、悪評にもかかわらず、誠実である。
わたしたちは、無視されているようで、評判を勝ち得ている。
わたしたちは、死に瀕していながら、永遠に目を向ける。
わたしたちは、悲しんでいるようで、常に喜んでいる。
わたしたちは、物乞いのようで、多くの人を富ませている。
わたしたちは無一物のようで、すべてのものを所有している。

第2コリント6:8-10

福音には、逆転の論理があります。この世の論理は行き着くところ、<だからきみはダメなのだ。><希望を持つことなど無意味だ。><あきらめて身の丈の人生を生きればよいのだ>と言い聞かせます。確かに人生は、すべてがこちらの思いとおりになるものではないでしょう。けれど、人生には思いがけない出会い、展開があることも事実です。
与えられた人生は様々です。出自、親の経済的状況、家柄、親の教養などを見れば、確かに人生はこの上なく不平等と感じることはあります。しかし必ずしも金持ちが幸せとは限らず、見せかけの幸せとと心の満足度とはまったく次元が別の話です。これをもって、一方に<だから私は不幸な人生を生きるように定められている。>と受け止める人がいれば、他方にこれを土台にして、一転奮起する人もいます。

86歳になって老いて、信仰を曲げて失敗して、そこから13年間神から遠のいたアブラハムを憐れまれた神。不倫の果てに、息子からクーデターを起こされ、すんでに命を奪われかけたダビデ王。もはや「イエスなどという名は知らぬ。」と人々に公言して、その後、赦された弟子たちのリーダーであるペトロ。おそるべき教会の迫害者から一転して、歴史上最大の宣教者となったパウロ。それぞれがありえない人生の逆転を味あわされた人々ばかりです。
ですから、福音には<あきらめよ>という、この世的な思考回路はないのです。ひとは信仰によって、逆転の信仰に立ち、人生は大きく開かれていくのです。何歳であろうと、失敗がどれほど手ひどいものであろうと、神が持て余す人はいないのです。あるのは全面的に神を信じなおすか、あるいは人生を放棄するのか、人が取るのは、どちらかしかないのです。

(2010年08月29日 週報より)

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