平等と公正の違い

2016年4月から「障害者差別解消法」が施行された。国連の定める「障害者権利条約」の締結に向けてなされている国内法整備の一環である。多くの問題を抱えつつも、全ての人が障害の有無に関わらず相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を目指すという当たり前の事が目的とされている。その中で、最も重要なキーワードが「合理的配慮」というものである。「合理的配慮」とは、障がい者が必要とする環境を整えるように周囲の人びとが合理的な配慮をなすことをいう。例えば学校などで意思疎通が困難な生徒に対しては、補助具としてタブレット端末を提供することなどをいう。少し難しいお役所言葉で言えば、「社会的障壁の除去を必要とする意思表示がなされたならば、必要かつ合理的な配慮を行わなければいけない」ということである。これまた当たり前のことながら、実際の場面では様々な困難が生じているという。例えば、ある特定の生徒すなわち障害のある子どもだけにタブレット端末を与えあるいは補助のための専任教員が配置されるような特別扱いは、「ズルい」といったクレームが親たちから学校に寄せられているという。ウチの子も色々と苦労しているのだから、誰もが同じような扱いを受けるべきだというのである。あの子だけ特別扱いは納得できないというのである。こうした考えは「平等」と「公正」という、似たような言葉でありながら、その実質は異なる考えが理解できていないという認識不足による。

「平等」とは、各人の能力の違いを考慮することなく、全員に一律同じものを与える。みんな同じ能力を持っているのなら、それでいいだろう。しかし実際は、それぞれ皆違っているのである。それに対して「公正」とは、各人の有する能力の違いを考慮して全員に同じ機会を与えることを目的とする。だから既に十分な機会が与えられている人には更に与えることはせず、能力の劣る人が周りの人と同等の機会が得られるように配慮する。言い換えれば「公正さ」が担保されて、初めて「平等」となるという考え方である。まず何でも同じものを与えることが「平等」なのだという考え方とは、その発想からして異なるのである。能力が劣る人たちが行政サービスとして、すなわち税金を投入して恩恵を受けるのが「ズルい」といった妬む感覚は、私たちが眼鏡や補聴器を付けるのはズルいと言っているのと同じである。その違いは、程度の差でしかない。他者は他者の学ぶ権利や生きる権利を裁き、引き下ろす権利を有していないということを弁えなければならない。そのことを弁えないことから、私たちの中に小さな差別の芽が育っていく。いつの日か「特別支援」などという障害者へのサポート自体が、私たちの日常の眼鏡や補聴器や杖と同じような特別でない「普通支援」とならなければならないだろう。そのためには、私たちが「平等」と「公正」という二つの考え方の違いについて、考えを深めていくプロセスが欠かせない。

こうした理路を辿ってくれば、10時間働いた者と1時間働いた者の給料が同じであるという資本主義的価値観にどっぷりつかった者には到底理解し難いあのイエスのたとえ話(マタイ20章)についても、十分に納得できるのではないだろうか。すなわちイエスは平等な扱いではなく、公正な扱いをこそ求めているのだと。

五十嵐 彰 (2016年07月10日 週報より)

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