謙遜(けんそん)を身につける

神でありながら、神と等しいものであることに固執しようとはせずに。

フィリピ2:6

謙遜はキリスト者の美徳とでもいえるものです。しかし謙遜であることはなかなか身につきにくい美徳でもあります。わたしたちは謙遜の大切さを口にしながら、じつは逆に傲慢に陥ることが時折あるものです。以前ある伝道者から「日本の牧師はもっと権威的であるべきです。」といわれ腰を抜かさんばかりに驚かされたことがあります。牧会伝道という牧師の務めは神に仕え人々に奉仕することこそ本来的あり方だからです。牧師を<・・先生>と呼びかける呼び方もそろそろ見直したらどうでしょう。教会は学校ではないのです。もっとも<日本の牧師は・・・>と言う言葉を逆方向から聞けば「日本の牧師は権威主義ではない。」というほめ言葉かもしれません。でもやはりわれわれ日本の牧師も、謙遜をジェスチャーで包みながら、心はじつは傲慢で、謙遜は程遠いのです。謙遜傲慢と言う言葉があるくらいです。

ところがパウロによるキリスト賛歌の言葉によれば、キリストは神でありながら、神たることすら保とうとはしなかった。ありとあらゆる地上の問題、苦しみに自ら身を投げ出して、苦しみを共にされたのです。確かに神である方はそうする必然はないのです。神は高みにあって、地上を睥睨(へいげい)しておればよいのです。人間の苦しみとは、自ら招いた苦しみにほかなりません。自分の問題は自分で解決する以外にはないのです。神は神であることに<固執・固守>すべきだったかもしれません。しかし、キリストは固執すべきあり方を捨てて、人間になられ、最も貧しい人の一人として人々に仕えられました。

じつはそれこそが神としてのあり方でした。神が神であることを貫き通すことこそ、徹底的に仕えるキリストの姿でした。それこそが<神と等しいものであることに固執せず、自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで従順であった>主イエスのお姿でした。

キリストがそれまで当然<固執・固守>すべきと考えられていた様々な事柄を、そうすべきでないと行動された。長い航海を終えた船の船底に藤壺のような貝類が付着するように、現代の教会も2千年の歩みの中で身についてしまった誤まった権威主義のような本来的ではない生き方が身についてしまっているのであれば、見直すときが来ているのかもしれません。それは誤りであり、そうであってはならないものだからです。
カトリック教会を訪ねると、長いすの足元にちょうど足台になる場所に、スポンジの張った台が設置されている教会がしばしばあります。それは足を置くところではなく、跪(ひざまず)くための台です(もっとも高齢のシスターなどこれ幸いとそこに足を置いているのをみますが、それをわれわれがやることは好ましくはありません)。いずれにしても教会ではひとはいかに謙遜に生き得るか、キリストの前にいかに跪(ひざまず)くかをともに学ぶべきでしょう。

(2011年10月16日 週報より)

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