視点を変えて

「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい。」
<すべてのことをつぶやかず疑わないで・・>

口語訳 フィリピ2:14

私たちはこころざしを立て、神の前に、信仰生活を日々を生きます。信仰と言う確信の世界は、不平不満や疑いとは無縁の世界に生きることと思いがちです。けれど人間の生の現実はそれほど簡単ではありません。現実世界への憤懣や疑いが、目を信仰に向かわせることもあるでしょう。そうであれば人はもう不平や、疑いは捨ててもいいわけです。でも身に染み付いた<ありよう>にたいし、人は簡単に別れられないのです。

旧約聖書のエジプトを脱出したイスラエルの人々は、つぶやきにつぶやきます。この場合のつぶやきは、「ひとりごと」を言うという意味ではなく、不平をつのらすという意味です。他人から見れば、奴隷状態で拘束されていた人々が、自由に生きることが可能になった喜びは何事にもかえがたいと思いますが、イスラエルの人々はそうでもなかった。砂漠を流浪する貧しさにくらべると、奴隷時代の肉や野菜に囲まれた日々がなつかしくなったのです。
人間は少し空腹くらいのほうが、心も、身体も健康なのです。英語で朝食は、breakfastです。fast-つまり空腹をブレークするのが朝食です。けれど多くの人は、朝になっても胃袋は、前日の残りがつまっていて、朝食など食べる気もしないのです。breakfastになりません。昼食も、夕食も、胃袋は満杯状態が続きます。空腹感など感じる暇もありません。人間の食べるという行為は、単に食物を摂取することではないように思います。むしろ精神的な満足感を、食べることに求めます。場合によれば、精神の欲求不満を乗り越えるために食べるのです。その場合不満の度合いにつれ、過食になります。砂漠のイスラエル人たちは、神が与えてくださったマナやウズラに満足せず、エジプトの肉鍋をしたい、指導者であるモーセを恨みさえしたのです。

人は自分自身が、ほんとうはとても幸せな状態にいるにも関わらず、それに満足しないということがしばしばあります。自分が見えなくなるのです。恵まれているのに、自分がとても不幸に感じてくるのです。すべてのことが不平、不満、つぶやきの材料になってきます。飽食なのに、なお飢餓感があるのです。心の飢餓感こそ、満たされるべきです。『不平や理屈をいわずに・・・』といった使徒パウロほど、つぶやかざるを得ない状況にあった人は居なかったでしょう。彼には苦難と欠乏、鞭打ちと監禁、不眠と飢餓がありました。同僚のキリスト者のうちにも、パウロへの敵意やねたみを抱く人すらありました。なぜこんな目にあわなければならないのかと、パウロが周囲に心閉ざしても、少しも不思議ではなかったでしょう。でも、パウロの目には全く違った世界が映っていました。困難な状況は、神が人を置き去りにして、遠ざかったのでは少しもないこと。試練も困難もそれ自体が神のわざであり、神がともにいるしるしなのです。不平やつぶやきは、それを口にし、あらわにすることで、神への思いや洞察を鈍らせ、神の恵みを手おとしてしまうのです。

ほんとうは幸せなのに、ほんとうは愛されているのに、少しも幸せに思えない人々が多いのです。人生には少し見方を変えると、すっかり違って見える世界があります。あなたは、周囲に心閉ざしていませんか。信仰の世界に目を開いてみませんか。

(2005年09月04日 週報より)

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