神に聴く心を

それでも日本は安定した平和な社会というといわれますが、ついに昨年までの9年間、3万名以上の自殺者を日本は生み出してきたと発表されました。この数字は、自殺を決行して、大怪我をして病院に入院した後、亡くなられた方々や、未遂に終わった方々は、入っていないのだそうです。それらすべてを含んだ人々の群れはどれほどになるのでしょう。自殺を決行した人々の実数は、その倍以上にも及ぶのかもしれません。経済的に行き詰まってしまった。競争社会の中で疲れ果ててしまった。夫婦、親子関係の崩壊。生きがいの喪失感。様々な自殺への理由、引き金になる問題は確かにあります。私も含め、本来生きていくべき力を吸い出してしまうような、生きることを根底から疲れさせるような問題は、誰にも起こりうるでしょう。傍観者であればなんでもないことも、当事者ともなれば身をよじるような苦しみになる問題もあります。だから問題の当事者になることを避け、傍観者として生き続ける生き方もあるかもしれません。往々にまじめで良心的な人ほど、心悩むのです。

聖書を読んでいて、そこに展開する社会の様子は、まるで現代の日本ではないかと思えるほど似通っているところがあります。預言者アモスが生きた、紀元前10世紀のイスラエルで贈収賄の横行、弱者の搾取、道徳的腐敗が横行していました。年金の横領とか、経済的強者と弱者の極端な差別化とか、人間の問題は時代や場所を選びません。その時代に生きた預言者アモスは搾取と差別からうまれた貧しい人々の惨めというほかはない状態に悲しみました。金持ちたちは「貧しい人々を、靴一足の値で売った」とアモスは怒ります。しかしあえて、問題は<パンに飢えることではない。>といいます。そうではなく「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き。」(8:11)と断じます。
信仰のあるなしにかかわらず、人生の苦しみと悲しみは押し寄せます。でも私のささやかで、せまい経験ながら、少なくも聖書の神を信じ続けるところに、道は開けるのです。自民党の政治家たちの口から、やがて公教育の中で、伝統的価値観を児童生徒に教えるために、授業の一環として<神社参拝>をとりあげよう、ということがときおり語られます。太平洋戦争末期に、日本の指導者たちはゼロ戦に爆弾をかかえさせ、片道の燃料のみを搭載して、アメリカ艦隊に自爆攻撃を命じ、神風攻撃隊と命名しました。やがて神風が吹いて、アメリカ艦隊は撃滅されると信じ、また祈ったのです。この愚かな命令のもとに犠牲になった若者たちは強制された悲劇の英雄に祭り上げられました。
昭和天皇はかつて<現人神>でした。ひとりの限りある人間が、神で あるはずがないのですから、そう崇められたときに「私は神ではありません。」というべきでした。けれど、ほんものの神を信じているキリスト者たちが獄中に捕らえられ、<キリストと天皇陛下とどちらが偉いのか?>と問い詰められ、責められ、殴られ、殺されました。そうした出来事に昭和天皇は心に責任を感じたことはないのでしょうか?

人が何を信じるのも自由です。けれどオーム真理教から名前を変えただけのアレフや統一教会。足裏判断で運命を計る名前も忘れた、ともかく、インチキという外はない宗教。なぜ人々はそうした反社会的なカルト宗教にひきずられるのでしょうか。神ならざるものを神とあがめたり、神を信じるといいつつ、それにふさわしい敬意をあらわさない二重性のあるところに、社会は精神的にやせ細っていきます。
日本ではたぶんキリスト者が社会のマジョリティー(多数派)になることはないかもしれません。でもキリスト者が社会のマジョリティーになっても、それで社会の問題が消えてなくなるわけではありません。でも、少数者かもしれないキリスト者が、神の言葉ゆたかな、愛と赦しにあふれた生き方を表すことができれば、あなた自身の人生も、周囲の社会もきっと変わってくるはずです。

(2007年09月23日 週報より)

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