年頭に
「人生はため息のように消えうせます。
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。・・・生涯の日を正しく数えるように教えて下さい。
知恵ある心を得る事が出来ますように。」詩編90編10-12
明けましておめでとうございます。新年を迎え、あらためて与えられた人生の時を分かち合い、心を行き交わす主にある兄弟・姉妹が与えられている事を、嬉しく思います。詩編90編を書いた詩人は、人の人生の時は限られた長さと語ります。人がどれほど若く、健康に恵まれているとしても、人生は決して私たちの思いどおり、願いどおりに運んで行くわけではありません。けさ初詣でに出る数千万の人々は<無病息災>を祈る事でしょう。でもそれは幻想にすぎません。人は、身体も心も、病む存在なのです。人生はおどろくほど有限です。人生の時は限られています。しかし、限られているからこそ、私たちは今日生きる事を、大切にします。限られているからこそ美しく生きる事が可能なのです。
人が自らの人生を少しでも考えるなら、良心を捨て切った人でなければ、そこに積み重なる罪を思わない人はいません。もちろん、人は、その人生の中で数々の善行を重ねるでしょう。しかしそれ以上の罪が重ねられているに違いないのです。詩編の記者は神の怒り、神の憤りを考えます。神の法廷というものはあるのでしょうか。年末のテレビ番組でかつてのカンボジアポルポト政権のナンバー2であった権力者がインタビューされていました。既にポルポト自身が死亡している現在、この人がキリングフィールドといわれたこの国の現実を造り出した人でした。170万人の人々が拷問のうえに虐殺されたのでした。ナンバー2は「150万以上の死は作り話」といい、「ポルポト政権下で行なわれた事に誤りは一切無い。」となお言い切ります。そのインタビューを見ながら、人という存在は、私自身も含めて自らの罪の重さや深さを自覚できないのだと、つくづく思いました。
そうした自覚の無いところに、次なる隠された罪の可能性が用意されています。神の法廷など無いに越した事はありませんが、人間には必要なのかも知れません。人生は限りあるもので、ことによると、今日が、今年が最後のときであるとしたら、過去の出来事への弁解や強弁ではなく、神の裁きに身を委ねるとともに、残された、与えられた日々を『喜びうたい、喜び祝う』(14節)道を探るべきです。
私たちは自分の人生に何を見るかで、生き方は決定的に変わります。嬉しかったこと、感謝なこと、悔しいこと、損をしたこと、さまざまな出来事があります。しかしすべてのことの中で、神の愛は少しも欠ける事無く降り注いでいたはずです。その中で、何を見つめるかです。
キリスト者であれば、信仰を土台にすえて歩みます。私たちは、その人生にあって、部分的にキリスト者であろうとするわけにはいきません。この点だけはALL or nothing です。1割クリスチャン、3割クリスチャンという存在はありません。キリスト者であるのか、ないのか、しかないのです。この信仰を踏まえて、今年私たちはすすみます。
(2006年01月01日 週報より)