献身に生きた主の前に

ガソリンが一挙に値下げになったり、高齢者の健康保険が、直接年金から差し引かれるようになったり、政治がわれわれの日常生活に密着していることが、実感として迫ってきます。この政治のことを古い言葉で<まつりごと>といいます。〔まつりごと〕とは直接的には<祭事>であったに違いありません。祭事-つまり宗教と政治とは結びつきやすいものです。現代の日本政治の一方の与党は宗教団体を母体にしたグループです。まして古代において王は神であり、祭司の長でもありました。現代においても独裁国家やかつてのドイツのナチ党の政治集会は宗教儀式に近いものです。きらめくような道具立て、たとえば数え切れないほどのかがり火の中で、国威発揚を思わせる、ものものしく、荘厳な儀式、魂を揺り動かすようなファンファーレと扇動的なアジ演説。人々の心は呑み込まれ、その中で陶酔し、やがて自分を失っていくのです。

ところがイエス・キリストにおいては、そうした宗教的な扇動・粉飾はどこにも見えません。主イエスは黄金色に輝くよろいも、羽飾りのついたヘルメットとも、まったく無縁でした。生涯貧しい生活に徹し、その弟子達も漁師や罪人といわれる人々。当時、社会の周縁に追いやられている収税吏、長く心病んで主イエスに癒された人々、社会で最も卑しめられていた女性達も弟子として受け入れられていました。
時折、偽ってでも、粉飾してでも、権力を握って上昇したいという願望を持つ人が現れます。主イエスの弟子達ですら、この世の権力や支配は無縁でしたが、来るべき神の国では権力者になりたいという願いは捨てきれていませんでした。イエスキリストを師と仰いでいながら、人々の支持や精神的尊敬を神へ、ではなく、自分のほうに向けたいとする偽りに駆られる人の心は消えてはいませんでした。

キリストは神でありつつ、十字架に至るまで徹底的に仕えられました。人を癒し、励まし、強め、救いに導きつつ、その報いは、十字架への道でした。それはキリスト者の歩みの原点であり、常にそこに留まらねばならないのです。ところが、教会が強力になり、力を持つと、司祭や牧師の権威主義化が起こったのは周知の事実です。中世ヨーロッパで、礼拝に使われる高位聖職者の法服は金銀の刺繍の施された豪華絢爛極まるものです。
人は本来的に罪人で自己中心的な存在です。しかもその上に制度や、組織という形式からくる権威主義があいまって、時に教会は主イエスの姿からは考えられないような姿を現すことがあります。人はいかに罪深い存在であるのか。罪許された存在とはいえ、罪ある過去と無縁になってしまうのではなく、罪責意識、良心の呵責を心の奥底に受け止めつつ、神の前によりよい歩みがなされることを願いつつ、歩む生活がキリスト者の生活といえます。
われわれは線引きされて、もはや罪もけがれもない聖なる、清くされた側にまったく移されてしまった、とはならない。むしろ、神の前に誇れるような者でない事を深く自覚しつつ、神と隣人の前にいっそう謙遜に歩むものであることを目指したい。

(2008年04月13日 週報より)

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