クリスマスイブ前日の来訪者

クリスマス・イブ前日、町は御馳走やケーキの買い物でごった返していました。お隣のケーキ屋さんは、数日間、徹夜状態で大わらわの働きぶりだった。そんな時に教会に一本の電話がかかってきた。ひと組の結婚して間もない若い夫婦。女性の方は親の顔を知らない。どこかの施設で育った方だそうだ。男性も、幼い時母親が家出してそのまま。父親に育てられた。つらい少年、少女時代を過ごした二人が、所帯をもつことにして、小岩にある建設会社で働いて、会社の提供するアパートに住みはじめた。専門的な建設の技術があるわけではないので、現場ではつらい下積みの仕事を一生懸命こなして、二人で毎日一生懸命働いた。やがて妻が妊娠。現場の親方が言ったそうだ。「まだ若いのだから、お腹に子供がいても働けるはずだ。もし子供がだめになっても、また出来るさ。」そうこうしているうちに、彼も彼女も健康を損ねかけて、たちまちクビになってしまった。
この話しのすべてが本当だとすると、ひどいものだ。労働基準局と言う役所があるけれど、こういう人々をどう支援しているのだろう。昔ヤクザに入りかけていた彼には、前科がある。こうした自分に保証人になってくれる人などいない。飯場を追い出されたら、行く先がない。友人を訪ねて八王子までその日の朝来た。不運にも、友人はどこかに引っ越してしまっていて、見つけられなかった。

彼のほうはヤクザの組長から足を洗って、伝道者になったミッションバラバのひとりから、伝道されたことがあって、キリスト教に好印象をもっていた。彼女も少しだけれど聖書を読んだことがあった。12月23日は朝から何も食べていなかった。所持金は、千円と少々。最近のように詐欺まがいのダマシが横行する時代には、人々は警戒的である。警察ですら面倒を見てくれる人がいれば、助けの手を出さない。この二人は恥をしのんで近くの教会に行って、なんらかの助けを仰いだ。教会もさまざまな人々を迎える。飲み代が欲しくて、由木教会を訪ねる人もいないわけではない。さっきまで金をせびっていた人が、諦めて教会を出て、その足でラーメン屋でビールをあおぐというケースもある。だから時間をかけて話しを聞いて、判断しなければならない。忍耐とストレスと、その上、いささかのお金も覚悟しなければならない。

彼らが訪ねた教会では、「援助は出来ない。」と断ったようだ。最初の教会は、「上野のほうに行けば、炊き出しをやっている教会があるから、そちらに行きなさい。」次の教会は、「物乞いでもしたら、お金が入ってくるよ。」と言ったそうだ。がっくりして富士森公園のベンチで寒空の下、何時間も過ごしたらしい。夕方が近くなり、思い切って電話した先が、わが教会だった。連合いが、電話の応答をした。所持金を訊ねて、由木まで来れるかどうかと聞くと、「ぜひ行きたい。」と答えた。
小一時間して、彼らが到着した。ふたりとも憔悴し切って、疲れ切って、言葉も途切れ途切れに、話しはじめた。特に教会で受けた扱いに、言い様のないくやしさが伝わってきた。熱いココアを飲んでもらって、妊娠三カ月の彼女のためにも、われわれは一晩の宿と夕食をと話した。しかし、ふたりは1時間半ばかり話しをして落ち着きを取り戻してくれた。一応なにがしかの交通費をお貸しして、来た時よりはだいぶ元気になって二人は帰って行った。

マリアとヨセフが、なぜ家畜小屋に追いやられたのか、すこし分かるような気がした。二千年前も、今も、人の心は変わらない。人は外見で判断する。そうしてマリアとヨセフは家畜小屋へと追い払われた。しかし幼子主イエスは、いと貧しき小さきものとしておいでになった。断ち切り、シャットアウトするのでなく、分かち合う世界が実現することを神は求めておられるのではないか。

(2005年12月25日 週報より)

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