問い直すこと

新年になって、ラス・カサスという人の伝記を読みはじめました。16世紀ドイツにおいてはマルティン・ルターが宗教改革に立ち上がった頃、大航海時代の幕開けを迎えたスペインで、植民地と本国スペインに起こった深刻な問題に立ち向かったカトリック司祭です。1492年にコロンブスが西インド諸島に到着してからすぐに、途方もない現地民の奴隷化と殺戮が始まったのです。当時中南米にあった現地人の宗教儀式は、生きた人間の犠牲を伴う血なまぐさいものがあったようです。
<血が凍るような、悪魔的な宗教儀式を行なう野獣。>
スペイン人たちは格好な現地人奴隷化の理由を見い出したのです。そこに住む現地人は人間ですらないとする意見すら堂々と交わされるなかで、現地人キリスト教化と、人々の奴隷化が一気に進行して行きました。驚くべきは、本来、愛と清貧に生きる事を旨としたフランチェスコ会の司祭、修道士たちも現地人の奴隷化を積極的に進めていた事です。

圧倒的に多くの人々が、そうした意見に立つ中で、ラス・カサスはただ一人、現地人の民主的な扱いがなされる事を望み、力をつくしたのでした。ひとつの流れの中で、有力な立場に組みするというのは、身を守るひとつの手段です。しかし約500年前にラス・カサスは敢然と、現地人の人権の孤独な戦いをために力をつくしたのでした。
教会が最も巨大な力を持ち、権力の座に近かった時、教会はイエス・キリストに最も遠かったのでした。イエス・キリストは、羊飼いが、99匹を野原においたまま、1匹の迷った羊を探すために出かけたと言う話をしました。この話は、じつは羊の話ではないのです。迷って、道を失ったのは人間のことです。また集団の中で、自分自身はどう行くべきかを問うことなく、身を寄せあうことで一応は自分だけは大丈夫と、思い込んでいるのも、人間の現実です。所属するグループの中で、他人とちがわないように、他人に遅れをとらないように、必死で集団から外れないように努力する。それは羊のことではなく、われわれ自身のことです。

例えば今のイスラエル社会で、ユダヤ人とパレスチナ人との対立は、ユダヤ人にとって避けがたいものように受け止められています。ガザ地区を手放した中で、とくにヨルダン川西岸区域は、イスラエルの入植が既成事実化しています。ところが他方、国連は、パレスチナ人の帰還の権利を、保証し、イスラエル非難決議も何度となく採択されているのです。そうした社会の中で、イスラエル国家は、西岸地域を神から与えられたちとしてユダヤ化を推進しています。
しかし、その状況下でイスラエル人でありながら、パレスチナ人との和解と共住を進めようとする人々が存在します。しかし、極めて少数者である。いってみれば、そうした人々は1%にも満たない、多数者から見れば、<血迷った裏切り者>としか見えないのです。周囲から白眼視され、仲間はずれはもちろん、偏見にさらされ続ける。しかし、真理性はこの人々にこそ、あります。
私の手許に、1986年になくなったリリ-・クラウスというウイーンのピアニストの演奏を録音したCDがあります。ウイーン国立音楽大学の教授もつとめた人です。彼女は1941年に世界演奏旅行をしました。アフリカのジャングルで医療活動をしていたシュバイツアーのもとをたずね、演奏をしたのです。そしてたまたま12月に、彼女はインドネシアをたずね、そこで太平洋戦争の勃発に出くわしてしまったのです。そして理不尽な事に、日本軍は彼女を戦争捕虜として以後敗戦までの3年間・・<強制収容所>に抑留された、とジャケットの英語の説明があるのです。この人は戦後何度も来日しました。おもにモーツアルトやシューベルトを弾いてくださいました。このやさしい女性を、当地の日本軍は<強制収容所>におくったのです。なんと愚かなことをしてくれたのでしょうか。誰がどう見ても、これは間違いなのだ、こんな事をしてはならないと思える事が、その渦中ではよく分からなくなるという事は、しばしば起こり得るのだと思います。
だから個人においても、集団においても、人生観や歴史観、価値観について問い直したり、疑問を差し挟む事はさけがたく大切なのだと思います。それはつまり、なんらかの自己否定を伴う事です。つらくきびしい事です。そうする事のできる人は、いつも少数者であろうと思います。人々は、自ら、問い、迷い、苦しむ人を、ハズレもの扱いするかもしれません。でも500年後にラス・カサスが評価されたように、危機の時代にリリー・クラウスがピアノを通して平和の価値を訴えようとしたように、少数者の中に真理がありました。イエス・キリストの言葉です。
<人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。> (ルカ19:10) 
主イエスが求める人は、迷うことを恐れずに、自らを問いなおす人です。問い直す事は迷いの森に踏み込んで、自分を見失う事ではないのです。逆にそこでこそ私たちは行くべき道を見い出すのです。

(2006年01月08日 週報より)

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