痛みを抱えて生きる

今年に入ってから体調を崩しました。お腹の痛みが続いたのです。今までもお腹が張ってガスが溜りお腹を痛くしていたことがよくあったので、いつもの痛みだとやり過ごしていました。

ところが1ケ月たっても2ケ月近くたってもいっこうに痛みが治まりません。だんだん心配になってきて、30年来のかかりつけのお医者様(御蔭で私は健康診断以外ほとんどお世話になっていませんが)の所に行きました。先生は触診して、「癌の疑いがあるなら僕は癌センターに紹介状を書いてあげますが、多分異常がないと思うので近くの総合病院で念のため内視鏡検査を受けてみてください」と言われました。最終的には私の健康のことを心配して下さった方の紹介で別のより良い病院でCTと内視鏡検査を受けることができました。結果はやはり異状なしでした。それなのにお腹の痛みは続いていました。

そのこともあって腸に関することを色々調べました。腸は第2の脳でとても大切な臓器であること、ストレスを受けやすいこと、腸には300種類・約100兆個の細菌が生息していて善玉菌を優位にして腸内環境を整えることが大切であることなど知りました。

思い返せばこの1月は色々とストレスと感じる事柄がありました。特に義兄が大腸癌になりその痛みで苦しんでいるのを目の当たりにして心がすごく痛みました。腸粘膜というのは痛みを感じず、粘膜外側にまで広がり、痛みを感じた時にはかなり深刻な状況なのだそうです。義兄は12月半ば痛みを感じ、クリスマスに入院し50日という短い闘病生活であっという間に天に召されてしまいました。一番辛く感じたのは義兄が病院にいながら痛みのコントロールを十分受けることが出来なかった事でした。本当に病院選びは大切なことであると実感しました。

終末医療でよく言われることですが痛みには肉体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、霊的痛みの4種類あると言われています。肉体的痛みは医者・看護師の領域。精神的痛みは主に家族・友人、カウンセラーの領域。社会的痛みはソーシャルワーカー・ケアマネの領域。霊的痛みは宗教者の領域。どの痛みにもそれを和らげるケアが必要です。そのような痛みのケアやコントロールをしてくれる病院が理想的なのですが・・・・

終末医療だけでなく私たちの誰もが日常生活に痛み(辛さ)を抱えています。肉体的痛みや、障害を抱えながら生活している方も多いと思います。また家庭や会社、友人間などの人間関係で精神的痛みを抱えます。経済的な心配や将来への不安といった社会的痛み。生きる意味、生きてきた意味などの実存的スピリチャルな痛みがあります。

私たちはこのような痛みから逃れることはできません。でも私たちクリスチャンは神が共におられ、聖書の言葉に励まされ、痛みを分かち合う教会の仲間がいることはなんと幸いなことでしょう。

3月に入ってお腹の痛みに加えて今度は耳鳴りが始まりました。ネットで調べたらやはりストレスからくることが多く、治ることはむつかしいことを知りました。耳のそばでゴーゴー音がするので不快でたまらず、夫に苦痛を訴えたところ夫は「僕は何年も前から四六時中、キーンという耳鳴りがしているけど気にせず過ごしているよ」との事。受け入れ、抱えながら日常をこなしている事に改めて感心してしまいました。幸い私は1週間で治り、耳鳴りなしの生活がどんなにあり難いことかを噛み締めています。耳鳴りの最中はお腹の痛みは二の次になり余り痛みを感じませんでした。人は様々な痛みの渦中にある時そのことばかりに神経を集中させ、より痛みを増幅させている面があります。痛みの受け止め方や感じ方によって、痛みが和らいだり、増幅して感じてしまう事に気が付きます。

コリントの信徒への手紙2の12章にパウロが自分のうちにある肉体的トゲについて、これさえなければどんなに良い働きができるのに・・・と思うのですが主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

いまだにお腹が張って時々痛む私ですがそれを私の弱さとして受け入れ、運動に心がけ、食事に気をつけ、神様にゆだねて歩んで行きたいと思っています。

小枝 黎子 (2013年04月14日 週報より)

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