みこころのままに
ヘブライ書の5章7節にこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
それは特定のある日の出来事であったのか、日々の出来事であったのかは述べられていません。けれど人類を救う失敗の赦されない厳しい状況の中で、主イエスの祈りは時に激しい叫びと涙を伴ったものとなっていったのかもしれない。
信仰なくして神に祈ることはできません。神への深い信頼が主イエスをして祈りに導かれたのです。人は祈れないのではなく、信じる心が不足しているのかもしれない。主イエスは叫びと涙をもって「みこころ」がなされることを祈られました。払われたのは激しい叫びと涙だけではなかった。イエス・キリストご自身が十字架にかかられ、ご自身を犠牲とされたのでした。しかもそれら一切の犠牲は私たちのために払われた犠牲でした。主イエスキリストは「多くゆるされたものは多く愛する。」と言われました。主イエス・キリストによる命がけともいえる愛に深い感謝をもって応答できるものでありたいと願うばかりです。人生には時折、耐えがたい状況、受け入れがたい局面に巡り合うことがあります。しかし主イエスに出会った私たちには、それを受け止め、耐える信仰を心に植え付けてくださったのです。
私たちも、信仰生活の中で、単に人生において私たちの意志の実現だけではなく、神のみこころのなることを祈る者となりたいものです。できれば犠牲と献身を払いつつ、他者を愛しキリストに従う歩みを全うするものでありますように。
そして信じていい。❛みこころなら必ず神は聞いてくださる❜と。
(2022年5月15日 週報より)