嘆きを数える神

あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。
あなたの記録に それが載っているではありませんか。
あなたの革袋にわたしの涙を蓄(たくわ)えてください。

詩編56:8

人生には涙の経験が避けられないと思います。<いつも喜んでいなさい>と聖書は私たちに勧めますが、同時にペトロもパウロも、主イエスでさえも涙の人でした。選べるものなら、成功の高揚感で日々がときめいていたいと願います。でも他者への献身や愛が常に報いられるとは限りません。それを受け入れ、理解する受け手の心の成熟が必要なのです。それがなければ、それは当然の行為として見過ごしにされ、あげくのはて献身は無視されるのです。
もっとも人生は願ったとおり人々に評価され、報いられ、成功することなど余程のことがなければ起こりません。時にひとは<喜びの涙>を流すときがないわけではありません。そこに立ち至る長くつらい懸案の問題や悩みが解決される日もいつか来ます。そのとき、ひとは<喜びの涙>を流すのです。

しかし人はそれぞれに何がしかの重荷を背負って生きています。精一杯のぎりぎりの忍耐の中を歩み続けています。ですから心になんらかの悩みや痛みを持つ人からは、つい遠ざかろうと思います。楽しみや喜びをもたらしてくれる人なら歓迎です。でもこれ以上の心の重荷には自分が耐え切れないのです。その結果、心に痛みを持つ人、問題を抱えている人は、敬遠され、除外され、切り捨てられるのです。けれど神は、イザヤ書53章の受難のメシアは<悲しみの人で、病を知っていた>(3節・口語訳)であるがゆえに、悲しむ人、病む人、痛みを負う人にこそ、近づいてくださるのです。捨てられた哀しみの経験があるからこそ、捨てられ、痛める心に深く共鳴してくださるのです。

聖書のほぼ最終章、ヨハネ黙示録21章3節

「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

主イエスは地上に現れたとき、自ら涙を流しつつ、人の目から涙をぬぐい取ってくださいました。そして今も人の心から心へ歩まれ傷を癒し痛みを取り去ってくださいます。人間も他者に共感する心を持っています。その人なりに限界まで他者のために努力しようとします。しかし人間は限界を持つ者です。人はすぐに疲れ果て、忍耐も、時間も尽き果てるのです。主イエスは私の嘆きを数えられ、その詳細を知りうる方です。限界を超え同情し、訴えを聞き、その人を助けられます。

今までもそうして歩んで来た。でもまだそれらしい答えが来ていない・・・? それは信じることをやめるときなのだろうか。それともいっそう心を定めて神の前に歩むときだろうか。主イエスの目は私たちに注がれています。明日、主イエスがこの心にお出でになることを信じよう。

(2013年04月21日 週報より)

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