神にこの年を生かされて

世界中の人々がこの元旦主に生かされて新年を迎えました。当たり前の出来事ですが、当たり前とはいえないかもしれない。一瞬のトンネル事故に遭遇した人もありました。病気でやむなくこの年を迎えられなかった人々もどれほどいたでしょう。私たちがこうしてこの1年を迎えられたことは当たり前ではないのかもしれません。
この人生に生きる意味があるかと問う人々も多くいることでしょう。確かに昨日まで生きてきた人生はつらく、苦しく、意味がないように感じられる人生もあるかもしれない。しかしそれはたった一人の、その人がそれまで生きてきた範囲の人生だから言えることであって、明日から始まる新しい人生には当てはまるとは限らない。新しい出会いがあるだろう。新しい心の思いが、思いがけない心の転換をもたらしてくれるかもしれない。

私は今年69歳になる。物忘れが徐々にすすんで、老人斑もあちこちに目立つことになりそうだ。いやことによると、認知症が・・・などと言うことが現実になっても不思議はないかもしれない。毎年年齢を加えていくことは厳然とした事実だからです。しかし人によってはこんな人生を歩む人もいます。
かつて公務員だったYさん。お目にかかるたびにきつい表情、冷たい態度、それは非礼に近かった。しかし寄る年波に勝てずこのYさんが人生のゴール近くに認知症を患われたのです。するとあの、きつく・冷たい、非礼に近い他人への態度が、この人から消えたのです。家を訪ねると、親切に家に招きいれてくださるようになった。それはそれは信じられないような変化でした。彼は微笑み溢れる、柔和で親切な老人に生まれ変わったのです。なくなるまでその穏やかさは少しも変わらなかったのです。ことによると本来やさしい性格であったYさんが、何か心の武装をせずには居られない理由があったのかもしれません。認知症を得ることで、Yさんは心の武装を解かれて、穏やかで、平和な本来のYさんに戻ることができ、人生の最後のステージは幸せこの上ない姿に見えたのかもしれません。

ことし、日本や世界をめぐる何らかの危機が案じられます。しかし同時に人類は何らかの危機にはいつも置かれています。個人の人生だって問題や危機がないときはないといってもよいほどです。けれど認知症を得ることであっても、人によっては一方的に人生の×とは限らない。物事には必ず明・暗があるともいえます。一般的な価値観から言えば○は○で、×は×とされていることも、見方を変えればそうでなくなる見方もあるのです。キリスト教信仰はそうしたものではないだろうか。キリストの十字架という決定的敗北さえ、決定的勝利であるキリストの復活に道を開くのがキリスト教の中心なのです。

だからわれわれは不安に身をゆだねない。希望を捨てることはしない。むしろますます神の救いが現実になることを望み、神を見上げます。神を信じます。ことしも心をこめて神の前に生きる。神がわたしを生かしてくださるから。

(2013年01月06日 週報より)

おすすめ