悲しみに直面させられて

あなたは私の嘆きを数えられたはずです。私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。

詩編56:9

使徒パウロはフィリピ書で「私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい。」と語りかけます。新約聖書はわたしたちにしばしば「喜びなさい」と語るのです。しかしどういうわけか、同時に、聖書全体では人が涙する場面が多いのです。冒頭の聖句に<革袋>という言葉があります。革袋にいれる物はワインです。ワインは喜びそのものを表す言葉です。なみなみとワインが注ぎ込まれた革袋は喜びにはちきれそうになった人生とみることができます。しかしその人の皮袋に注がれていたのは、喜びのワインではなく、悲しみの涙でした。初代教会の弟子たちのリーダーだったペトロはキリストを裏切ってはげしく落涙したのです。ルカ福音書7章の罪の女は「香油の入った石膏の壺を持ってきて後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7:37-38) その外、ヨブもダビデも、マグダラのマリアも涙の経験がその生涯に刻まれています。預言者エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、パウロは「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい。」とローマの教会に書き送りました。むろん主イエスも泣かれたのです。

普通、悩みや痛みを持つひとには、苦しみを分かち合える誰かが必要なのです。しかし人は、そのような涙の人から遠ざかるかもしれない。むしろ一緒にいて楽しい人、面白おかしい人が喜ばれます。じつは世に悩みのない人などいないのです。だれもが孤独で、重い心の荷物を抱えています。だからこそ今以上に重荷を引き受けることなどできかねるというのでしょうか。結局問題を抱える人から人々は遠ざかるのです。

しかし神は逆に、悩み、悲しむひと、やりきれない心の痛みを抱えるその人に、自ら近づかれます。聖書はこう語ります。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

イエスはこの地上においでになった時、人の目から涙をぬぐい取ってくださり、今も家から家へ、人の心から心へと歩んでくださり、傷を癒し、痛みを取ってくださるのです。むろん私たちも他者の悲しみを理解し、共感する思いはあります。時に限界を超えて手を差し伸べようとします。しかし人間存在は、あまりにも限界づけられた存在です。忍耐にも、理解力にも、時間も限られています。

革袋に収めきれないほどの涙を流しこんだ詩人も、エレミヤも、罪の女も、マグダラのマリアも、そのほかの多くの人々は心に神の訪れを受けて、静かに人生を受け止めなおして、生きなおしたと信じます。これらの人々の抱え込んだ心のつらさは他人に持って行きようのない底なしの苦しみだったでしょう。しかしイエスは自らそれを引き受けて、一人ひとりに許しと解放を与えられました。私たちが行うべきは、ただ主イエスに心からの信頼をもって、主の愛に応えることではないでしょうか。

(2014年10月26日 週報より)

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