「良い家庭」あるいは「うまくいく」ことについて

若い頃に大きな影響を受けたある牧師の言葉から。

 私は長い間考えさせられていることがあります。ある新聞に東北の中学の校長先生が出した投書がきっかけとなったことで、以来、いろいろな機会に多くの方々に考えていただいてきたことでもあります。その投書はそのころ学校の大問題であったいわゆる非行少年についてでした。その要旨はこうです。どのような家庭であれ、両親が特別立派でなくても、家族が互いに愛し合っている暖かい家庭であれば非行は生まれ得ない。教育者としての長い経験からもこのことは間違いないと信じる。私はこれを読んだ時、一応正論のようであることは認めても、その断定的な言い方に少なからず疑問を感じました。これで解決ならもともと問題もないのでは、という思いでした。数日後、同じ新聞に一人の主婦の投書がありました。校長先生の投書への反論のようでもありましたが、それ以上に悲しみの訴えのようでした。その主婦は結婚の時、ご主人ととにかく暖かい家庭をつくろうと約束し、多少のことはあったにせよ、明るい暖かい家庭であることを許されてきたと言うのです。しかし、一年前になぜか長男が非行に走り、今も全く解決のきざしさえ見えない。暖かい家族からは非行が出ないと言われても、私たちの場合はどうなのでしょう、という悲痛の叫びがそこには聞こえました。もちろんその主婦の家庭に問題がなかったかどうかは判断できないでしょう。しかし私には校長先生の教育者としての達見よりも、この主婦の訴えのほうが私たちの問題を真実に映し出しているように思えたのです。「良い家庭」からは問題が起こらないのであろうか。立派な人たちの家庭からは「異常」な状況は生まれないのでしょうか。私は決してそうは言えないと思います。どんな立派な家庭でも、どんなことでも起こり得ると私はずっと考えています。(中略)

 先の校長先生のことは何も知りませんから、多くのことを言うことはできません。でもこの方の場合は子どもさんたちも順調に育ち、すべてがうまくいったのではなかったかと思うのです。順調な経過と結果的に正しかったということとを同じことにされてしまったのではないかと思います。しかし、そう考え、発言することによって、ただでさえ非行に走った我が子のことで人の冷たい目を意識しなければならないあの主婦のような人を、結果的に断罪することになってしまったのではないか。うまくいっていることは正しいことなのでしょうか。それなりの最善を尽くして、なおしばしば多くの問題に、それも予期しない意外な問題に苦しむのが人間の真相なのではないでしょうか。そしてその問題を共に痛み、共に担うことなくして社会的な正しさを云々することはできないのではないでしょうか。うまくいっていることが自己義認、プライドにとどまるならまだしものこと、苦しむ者たちとの間に壁を立ててしまうのです。「非行の原因は親にある」という断罪によって、不当な差別意識の中に平然と生きるとすれば、うまくいくことはむしろ災いなのではないでしょうか。

 自分の人生がうまくいくために守られることを求めて、それで終わるというのでは、キリスト者としてはあまりにも無責任だと思います。いや、本当の神の栄光のための私たちへのみこころを拒んでいるだけのことなのかもしれません。キリストの福音は、成功の福音ではありません。真に祈る人としていただけるように切に祈らざるを得ません。

舟喜 信1992『キリスト者が神を信じるということ』いのちのことば社 : 15-18頁

五十嵐 彰 (2014年11月09日 週報より)

おすすめ