天に唾を吐いた人びとの末裔(まつえい)として

主に在りて忠信なる兄弟たちよ。我らは未だ面識の機会なく、互に伝統と生活の習慣とを異にしてゐるが、かかる諸々の相違にかかはらず我らを一つに結ぶ鞏固(きょうこ)なる紐帯が二つあると思ふ。其の一つは、我らの共同の敵に対する共同の戦ひといふ運命的課題である。彼ら敵国人は白人種の優越性といふ聖書に悖(もと)る思想の上に立つて、諸君の国と土地との収益を壟断(ろうだん)し、口に人道と平和とを唱へつつ我らを人種的差別待遇の下に繋ぎ留め、東亜の諸民族に向つて王者の如く君臨せんと欲し、皮膚の色の差別を以て人間そのものの相違ででもあるかのやうに妄断(もうだん)し、かくして我ら東洋人を自己の安逸と享楽(きょうらく)とのために頤使(いし)し奴隷化せんと欲し、遂に東亜をして自国の領土的延長たらしめやうとする非望を敢てした。確かに彼らは我らよりも一日早く主イエスの福音を知つたのであり、我らも初め信仰に召されたのは彼らの福音宣教に負ふものであることを素直に認むるに吝(やぶさ)かではないが、その彼らが今日飽くなき貪りと支配慾との誘惑に打ち負かされ、聖なる福音から脱落してさまざまの誇と驕慢(きょうまん)とに陥り、如何に貪婪(どんらん)と偽善と不信仰とを作り出したかを眼のあたり見て、全く戦慄を覚えざるを得ない。かくの如き形態を採るに至つた敵米英の基督教は、自己を絶対者の如く偶像化し、嘗て使徒がまともに其の攻撃に終始したユダヤ的基督者と同一の型に嵌(はま)つたのである。「汝ユダヤ人と称へられ、盲人の手引、暗黒にをる者の光明、愚なる者の守役、幼児の教師なりと自ら信ずる者よ。何ゆゑ人を教へて己を教へぬか。竊(ぬすむ)む勿(なか)れと宣べて自ら竊(ぬすむ)むか。姦淫する勿れと言ひて姦淫するか。偶像を悪(にく)みて宮の物を奪ふか」(ロマ書2・17-22)。これは悉(ことごと)く先進基督教国を以て自認する彼らの所業に当嵌つてはゐないであらうか。彼らがもしこのやうな自己の罪に目覚め、悔改をなし、一日後れて信じた我らと同一線上に立つて始めて信ずる者の如く日毎に主を告白する純真な信仰を有つてゐたならば、かかる反聖書的な東亜政策を採るに到らなかつたであらう。彼らが若(も)し主への真の従順と奉仕とを日毎に決断し実行してゐたなら、自国の内外の政治軍事経済文化の凡(あ)らゆる領域に亘つてあのやうな敗退と混乱とを演じないですんだであらう。我らは聖書に基く洞察と認識とによつて彼らの現状を憐むと共に、この不正不義を許すべからざるものとして憎まずにはゐられない。日本はこの敵性国家群の不正義に対して凡ゆる平和的手段に出でたるに拘らず、彼らの傲慢は遂に之を容れず、日本は自存自衛の必要上敢然と干戈(かんか)を取つて立つた。而(しか)も緒戦以来皇軍によつて挙げられた諸戦果とその跡に打樹てられた諸事実とは、我が日本の聖戦の意義を愈々明確に表示しつつあるではないか。彼らの不正と不義から東亜諸民族が解放されることは神の聖なる意志である。「神は高ぶる者を拒(ふせ)ぎ、謙(へりく)だる者に恩恵を与へ給ふ」(ヤコブ書4・6)。

日本基督教団1944『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』ルビは引用者

ここまで無残で悲劇的な文章は、滅多にない。「貪婪と偽善と不信仰を、眼のあたり見て、全く戦慄を覚えざるを得ない。」 このような手紙を一方的に送りつけておいて、戦後の日本のキリスト教会はどのようにして再出発を果たしたのか? 粗布をまとって灰の中に座していたのか?

離脱しようと留まろうと、罪責の重さに変わりはない。言葉とは恐ろしい。聖句も「神の聖なる意志」も、いくらでも使いようであることが良く分かる。だから教会と政治は、切り離さなければならないのか? 逆である。二度と再びこんな恥知らずな手紙をこの世に生み出さないためにも、気付かずにサタンに魂を売ることのないように、日々の行動・言葉に自らの信仰が試されているのである。政治的な試練を経ずに、時代風潮に流され、ただ組織存続を図り、言葉を弄(もてあそ)んだ末の悲惨な結末を胸に刻まねばならない。

「何ゆゑ人を教へて、己を教へぬか」と自信に満ちて述べてから、70年後の夏である。

五十嵐 彰 (2014年08月10日 週報より)

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